奇鹿神社/骸崩

【くしかじんじゃ/からだくずし】

鹿足郡吉賀町の名の由来となった伝説が残る場所である。奇鹿神社と呼ばれる神社は町内に2箇所あり、七日市の方は国道187号線に面した場所に、木部谷の方は国道から東に約1km程奥に入った場所にある。直線距離にして5km強離れた場所にある。そして骸崩と呼ばれる場所が七日市の奇鹿神社から500m程西の地にある。

第42代文武天皇の御代(697~709年)、筑紫に鹿の化け物が出現して人々を苦しめているとの報告が入った。その鹿は足が8本・角が8つに枝分かれした“八足八畔”で、普通の鹿の10倍はあるという巨体の怪物だった。身体は1尺もある赤い毛で覆われ、両目は鏡の如く爛々、口は大きく裂けており、素早く駆け回るばかりか空を駆けることが出来て、動物を捕って食うどころか人間を襲って食らうほど凶暴凶悪という。

この“八畔鹿(やくろしか)”と呼ばれる悪鹿を退治せよとの天皇の命を受けたのが、藤原為実・藤原為方の両名と北面の武士の江熊太郎であった。現地へ赴いた3名は、山深い地で早速八畔鹿を見つけると追跡した。だが鹿も素早く逃げ回り、筑紫を離れると豊前小倉から海峡を渡り、防長二国を越えて石見国の大岡山に逃げ込んだ。そこで江熊太郎が鹿の潜む岩陰に近づき、隙を見て毒矢を放ったところ命中。鹿はたまらず上空高く跳ね上がると、太郎に襲いかかった。太郎はそれに向かって渾身の力で二の矢を放ち、遂に仕留めたのである。しかしその直後、辺りに雲霧が立ちこめて大地が鳴動、その毒気によって江熊太郎もその場で悶死したのである。

鹿の遺骸は月和田という地まで運ばれ、そこで異様な角を切り落とし、さらに遺骸を埋めるべく解体したという。この解体をおこなった場所が現在でも残されており、“骸崩”と呼ばれ今でも信仰の対象となっている。(2023年のストリートビューで確認したところ、既に木は伐採され、「七福神」と書かれた扁額の掛かる鳥居が建てられており、“骸崩”の痕跡は失われつつある)。

功績がありながら落命した江熊太郎は荒神明神(現存せず)として祀られ、八畔鹿も祀られそれが奇鹿神社の始まりであるとされる。また八畔鹿を解体した時に柚の木に吊した(あるいは木の根元で解体した)ため、この地では柚は植えても育たないとされている。そして八畔鹿が暴れ回った場所から“鹿足郡”、悪鹿が良い鹿となるよう悪を“吉”に鹿を“賀”と置き換えることによって吉賀の地名が出来たとされる。

<用語解説>
◆周防の悪鹿伝説
現在の岩国市でも悪鹿を退治した伝説が残っている。こちらの鹿は頭が2つある鹿で、朱雀天皇の御代(930~946年)に比叡山で暴れていたため、梅津中将が京から追い立てて周防国で討ち果たしたとされる。岩国市二鹿には悪鹿と梅津中将を祀る二鹿(河内)神社がある。
なお奇鹿神社と二鹿神社は50km以上離れているが国号187号線で繋がっており(つまり古来より街道筋であったと推測)、また吉賀町と岩国市が隣接していることから、何らかの関係があるのかもしれない。

アクセス:島根県鹿足郡吉賀町七日市(奇鹿神社)
     島根県鹿足郡吉賀町柿木村木部谷(奇鹿神社)
     島根県鹿足郡吉賀町抜月(骸崩)