巴塚・葵塚

【ともえづか・あおいづか】

富山方面から倶利伽羅峠古戦場へ向かう際に利用する“源平ライン”と名付けられた山道がある。この入口から間もなく行ったところに「巴塚・葵塚」と書かれた案内板がある。車から降り、池の脇を奥へと進むと、2つの石碑の立つ塚が向かい合うようにある。100m近く離れた場所にそれぞれが立つが、これが巴塚と葵塚である。

倶利伽羅峠の戦いで大勝した木曽義仲には、複数の“便女(びんじょ)”と呼ばれる女性がいた。平時は身の回りの世話をしているが、戦となると一騎当千の武将として兵を率いる、知勇兼備の女性達である。最も有名なのが、義仲最期の時まで付き従った巴御前であり、その剛勇ぶりは『平家物語』にも記述されるほどである。他にも、義仲と共に京にまで上った山吹御前も有名であるが、『源平盛衰記』にはもう一人、葵御前と称する女武者の名が登場する。

伝承によると、葵御前は信濃の地方豪族であった栗田範覚の娘とされる。栗田氏は戸隠神社の別当職さらには信濃善光寺の別当職も兼任する、北信濃に勢力を持つ一族であった。範覚は過去に義仲の加勢を得たことがあり、この縁で娘を義仲に仕えさせたとされる。

便女となった葵は義仲に大層気に入られ、また同時に同じ立場にあった巴とも心を許しあい、二人が戯れる様子はさながら姉妹のようであったともされる。しかし間もなく葵は大病を患い、武者として巴に劣ることを自覚するようになる。そこで次のような伝説がまことしやかに残されるようになる。

義仲や巴に武者として認められたい一心で、葵は決して触れてはならない世界に足を踏み入れる。それは、人にあらざるものの力を借りること。父の治める戸隠神社の龍神に祈願をして、武者としての力を手に入れようとしたのである。そして呪術にも長けた葵の願いは聞き届けられたが、ただし戦で力を発揮するごとに寿命を削る代償を負うこととなったのである。

信濃から挙兵を図った義仲の軍勢は次々と戦を重ね勝ち進んだ。葵の奮戦は巴に互するものとなり、共に女武者として名を馳せるようになった。しかし普段の葵の体調は次第に悪くなる一方であり、ついに倶利伽羅峠の戦いの中、葵の精は尽き果てて討死してしまうのであった。

一方の巴御前も数奇な運命をたどった。義仲最期の戦いとなった近江粟津から脱出したが、最終的に源頼朝の軍に捕らえられ、鎌倉へ護送。敵方の将として斬罪となるところを、「強い女と夫婦となって子を成したい」と希望した和田義盛の妻となって、一子の朝比奈三郎を生む。しかし夫の義盛はその後謀反の罪で討たれ、巴は再び流浪の身となる。最終的に辿り着いたのは越中国。倶利伽羅峠の戦いで共に戦った石黒光弘を頼って剃髪隠棲したのである。その後、巴は91才という長寿を全うしたとされる。

亡くなる際、巴は「葵の葬られた場所と向かい合うように葬ってほしい」と遺言し、その通りに埋葬されたという。なお2つの塚の間には“巴葵寺”という寺が建立されたが、戦国時代に焼失している。

<用語解説>
◆倶利伽羅峠の戦い
寿永2年(1183年)5月、加賀と越中国境の倶利伽羅峠でおこなわれた合戦。峠に着陣した平維盛率いる平家軍約7万に対して、木曽義仲軍が前後から夜襲を仕掛け、唯一の退路となった断崖から恐慌した平家軍の多数が転落して壊滅状態となる。なお『源平盛衰記』にある、角に松明を付けた牛500頭をけしかけたとする話は、史実ではないとされる。

◆巴御前
中原兼遠の娘とされる。兼遠は源義賢の遺児・駒王丸(後の木曽義仲)を匿い養育しており、幼い頃から一緒に暮らしていたと考えられる。さらに義仲四天王の樋口兼光・今井兼平は兼遠の息子であり、巴の兄弟に当たる。また別伝として、木曽川の巴ヶ淵に棲む龍が化身して巴となって、義仲を守護したとの話もある。
史実としては、巴は義仲が討死した粟津の戦い以降行方知れずとなっている。しかし上記のように和田義盛の妻となった、越中国に隠棲したなどの伝説が残る以外にも、近江国の義仲寺に住まう名もなき尼が巴御前の後の姿であるとも言われる。いずれにせよ、長寿であったとされる。

◆山吹御前
木曽義仲の便女の一人。諏訪下社大祝の金刺氏の出であるとされる。また中原兼遠の娘で、巴の姉とも。女武者として活躍したとされるが、一説では義仲との間に一子をもうけ、それが嫡子の義高であるとも言われる。『平家物語』によると、義仲と共に上洛した山吹は、京で病を得たため、義仲最期の戦いには加わることがなかったとされる。また巴と山吹とはあまり仲が良くなかったとの説もある。

◆栗田範覚
生没年不詳。栗田氏は清和源氏・村上氏の一族で、戸隠神社別当となった禅師寛覚を初代とするが、年代的な考証から範覚と寛覚は同一人物であると推察される。範覚の名は『吾妻鏡』に登場し、木曽義仲と共に平家方と交戦した記録が残る。鎌倉幕府成立後、範覚は戸隠神社別当と兼任で善光寺別当の地位を得ており、以後栗田氏の本家と分家が世襲でそれぞれの寺社の別当職に就いて繁栄する。

◆石黒光弘
生没年不詳。越中国福光一帯を領する土豪で、木曽義仲挙兵後、越中の国人の中でいち早く従属した。倶利伽羅峠の戦いや篠原の戦いに義仲勢として加わっている。義仲の死後は越中国に戻り、所領を維持したものと考えられる。子孫は織田信長に滅ぼされるまで領主として続いた。

アクセス:富山県小矢部市石坂