お妙塚
【おたえづか】
形原松平家は三河松平家の庶流、十四松平家の一つである。応仁の乱前後に宗家・岩津松平家の信光の子が分立したうちの一つが形原松平家である。天文年間(1532~1555年)には既に安祥松平家(後の徳川家)に従っており、さらに5代当主の家忠は徳川家康と従兄弟(家康の母・於大の方と家忠の母・於丈の方が姉妹)という間柄であった。
この家忠の嫡男である家信がまだ元服前、又七郎を名乗っていた天正9年(1581年)春のこと。
徳川勢が織田信長と共に武田氏を攻めている中、形原城内で騒動が起こった。北条氏の間者・明鳥左馬之助が入り込み、次期当主の又七郎を暗殺しようと試みたのである。しかしそれは又七郎の乳母であるお妙によって阻止される。しかしお妙はこの騒動によって命を落とすこととなってしまった。遺体は城内に埋葬、この城が続く限り守護してくれるよう祀られ、桜の木を目印に植えたとされる。
その後元和5年(1619年)家信の転封によって形原城は廃城となる。その後城跡は残されていたが、多くの部分は宅地となってしまった。それでも一の曲輪・二の曲輪跡が残っており、そこにお妙を祀る“お妙塚”が置かれている。この塚は昭和15年(1940年)に新たに造られたものであるが、この建造中に五輪塔が掘り出され、現在も塚の横に安置されている。
<用語解説>
◆松平家信
1565-1638。形原松平家6代当主。天正10年(1582年)父の死に伴い家督を継ぎ、徳川の武田攻めに参加。その後家康の関東移封に従って上総五井を領した。元和4年(1618年)に故郷の形原に1万石で転封され、この時に大名に列する。翌年には高槻藩2万石、最終的に佐倉藩4万石の領主となる。
形原松平家はその後高槻、丹波篠山を経て、寛延元年(1748年)丹波亀山藩5万1千石に移封され、明治維新を迎える。
アクセス:愛知県蒲郡市形原町東古城