淀橋/成願寺

【よどばし/じょうがんじ】

応永年間(1394~1427年)の頃、この地に鈴木九郎という者が住んでいた。祖先は紀伊国の熊野別当一族である鈴木家の出で、源義経に臣従して東国へ赴いたという。しかし九郎の代には武家ではなく、この地を開墾しながらその日を何とか生活する身分となっていた。

ある時、葛西の馬市で馬が高値で売れた帰り、浅草観音に日頃の加護の礼として儲けた金を全て奉納した。そして帰宅すると、あばら屋に黄金が満ち溢れていた。観音様の加護であると悟った九郎は、この金を元手に開墾や商売を成功させ、ついにはこの辺り一帯を治める中野長者と呼ばれるようになった。

仏への信心から大金持ちとなった長者であるが、金が蔵へ入りきれないほどの身分になると、欲心ばかりの男となっていた。入りきれない金をある場所に隠し埋めようと、従者を伴って度々出かけるようになったが、帰りはいつも長者一人だけであった。帰り道にある橋に差し掛かると、隠した金の在処が漏れないように、従者をそこで斬り殺して川に投げ棄てていたのである。村の者も、橋まで戻ってくると長者一人だけになっているため、いつしかその橋を“姿見ず橋”と呼ぶようになったのである。
長者には年頃の娘があったが、その婚礼の夜に怪異が起こった。屋敷の近くに立てた熊野神社(現・十二社熊野神社)の方から黒雲が湧き上がるや大嵐となり、そのさなかに娘は突然蛇体に変化すると熊野神社の池に飛び込んだのである。長者は何とか娘を助けようと、相模国最乗寺の春屋宗能禅師を頼った。禅師は池の前で祈祷を始めるとやがて大蛇だった娘は人間の姿に戻った。しかし娘はそのまま姿を消し昇天したのであった。
長者はここに至り己の欲心と殺生の罪を悔い、ただちに剃髪すると、屋敷を取り壊して寺を建て、さらに高田から大久保にかけて108の塚を築き、中野に7つの塔を建てた。既に塚や塔はなくなったが、寺は成願寺と名を変えて残っている。成願寺には今も中野長者、鈴木九郎の墓が残されている。
一方“姿見ず橋”はその後も不吉な橋とされてきたが、江戸幕府3代将軍・徳川家光がこの橋を通りがかった時に、この橋からの光景が山城国淀の風景に似ていることから“淀橋”と名を改めた。しかしそれでもこの橋は、長者の娘の因縁から特に花嫁行列が通ることは禁忌とされ続けた。それが解かれたのは、大正2年(1913年)のこと。旧家である浅田氏の縁者の婚礼が執りおこなわる際に、柳田國男の講演を実施するなどして迷信打破を唱えてようやく取り除かれたのだという。

<用語解説>
◆十二社熊野神社
応永年間に鈴木九郎が、先祖の故郷である熊野三山より十二所権現を勧請して祀ったのが始まりとされる。娘が飛び込んだとされる池は、戦後しばらくまであったが、現在は埋め立てられている(ただしこれらの池は江戸時代初めにため池として造られたものとされる)。

◆山城国淀
現在の京都市伏見区南部、桂川と宇治川に挟まれた一帯(京都競馬場があることで有名)。ちなみに豊臣秀吉の側室であった淀君は、この地にあった淀城主であったことから、この名が付いている。

アクセス:東京都新宿区北新宿(淀橋)/中野区本町(成願寺)