御所五郎丸の墓

【ごしょごろうまるのはか】

建久4年(1193年)5月28日、富士の裾野で大々的におこなわれた巻狩の最後の夜。後に“日本三大仇討ち”と呼ばれる曾我兄弟の仇討ちがおこなわれた。

兄の十郎祐成と弟の五郎時致は、父の仇である工藤祐経を見事に討ち果たすが、騒ぎを聞いて駆けつけた多くの御家人を相手に組み打ち合いとなる。兄の十郎はこの時、仁田四郎忠常に斬り伏せられて絶命。しかし残った五郎はさらに一暴れをして、ついに将軍である源頼朝の宿所にまで侵入する。このあわやという時に五郎時致を単身で取り押さえたのが、御所五郎丸重宗であった。

御所五郎丸の出自であるが、江戸時代の書籍『扁額規範』によると、京に生まれ、16歳の時に師匠の仇を討った後に、甲斐源氏・武田信義の嫡男である一乗忠頼に仕えたとされる。忠頼が頼朝の命で謀殺されると、頼朝の近侍(舎人)として仕えている。

だが、この事件で功を成した五郎丸であるが、逆に罪を得て流罪となったとされる。『曾我物語』によると、五郎時致を取り押さえる際に五郎丸は鎧の上に薄物の衣を身に着け、あたかも女性であるかのような出で立ちで相手を油断させて近づいたとされる。これが“武士にあるまじき”行為とみなされたため流罪となったようである。

南アルプス市野牛島という場所に、御所五郎丸の墓と称するものがある。敷地には観音堂が建てられており、ここには五郎丸が肌身につけていた観音像が安置されている。そしてその堂宇の裏に隠れるように置かれているのが墓である。今でも8月の終わりには地元の人が慰霊のための祭をおこなっている。おそらく御所五郎丸は罪を得て野牛島へ流罪となり、その地で生涯を終えたと推察される。

<用語解説>
◆曾我兄弟の仇討ち
曾我兄弟の父親は河津祐泰で、仇の工藤祐経とは義理の兄弟となる。義父である伊東祐親に冷遇された祐経が祐親暗殺を企て、誤って祐泰を殺したことが発端となっている。ただこの仇討ちで五郎時致が将軍頼朝の宿所へ侵入した目的が不明で、一説では頼朝も同時に暗殺する手筈となっていたとも言われる。なお“日本三大仇討ち”は、曾我兄弟の仇討ち、鍵屋の辻の決闘、赤穂浪士の討ち入りを指す。

◆『曾我物語』
鎌倉時代末期に成立した軍記物。成立当初の形態である“真名本”と、より劇的な展開へと後代に手を加えられた“仮名本”の2系統に分かれる。御所五郎丸が女物の薄衣をかぶって正体を偽ったという内容は、初期の“真名本”にはなく、後代の“仮名本”になってから登場する(当時の正史である『吾妻鏡』にも記載なし)。そのため罪を得ることもなかったとする説もあるが(この他には「工藤祐経の宿所が分からず往生している曾我兄弟を助けて誘導した」という説もあり、それによって罪を得た可能性もある)、このエピソード以外に彼が史実に登場することはほとんどなく、謎の多い人物となっている。

アクセス:山梨県南アルプス市野牛島