常盤塚
【ときわづか】
江戸前期頃に成立したとされる『名残常盤記』という書籍がある。そこに描かれている伝承は、常盤姫にまつわる悲話である。 世田谷城の吉良頼康には13人の側室がいた。その中で一番の寵愛を受けていたのは、重臣の大平出羽守の娘・常盤であった。やがて常盤は懐妊し、頼康はますます彼女を愛した。
これに不満を持ったのは、残りの12人の側室であった。その不満は嫉妬へ、そして怨みへと変じたのである。常盤を殿から遠ざける策をあれこれ考え、ついに卑劣な計略を立てたのである。城中一の美丈夫と謳われた内海掃部と常盤が不義密通を重ねており、懐妊したのも掃部の子であるとの噂を流したのである。さらに掃部の懐に常盤の字に似せた付け文をしのばせ、露見するように仕向けたのである。頼康は怒り狂い、ただちに掃部を誅すると、さらに常盤を捕らえるように命じたのである。
身重の常盤は間一髪のところで城外に逃れるが、もはや逃れきることは出来ぬと観念し、可愛がっていた白鷺の足に遺書をくくりつけて実家へと解き放した。しかし追っ手が常盤の元に駆けつけた時には既に自害して果てており、胎児も死んでいたのである。
常盤の潔白を信じるわずかばかりの者は、胎児の胞衣に吉良家の家紋である桐の模様が浮かび上がっていることに気づき、頼康に進言する。さらにその悲劇の2日後、内海掃部の屋敷から黒雲が湧き上がり、城内が鳴動するさなか、突然側室の下女が発狂して側室の数々の悪計を暴露した。そして下女の声が掃部の声に変じて恨み言を述べると共に、無念の一筆をしたためて失神したのである。
頼康は、厳しく事の真相を質し、最終的に12名の側室全員を処刑した。しかし領内でさらに怪事が起こったため、駒留八幡神社の相殿に亡くなった若子を“若宮八幡”として祀り、境内社として田中弁財天を建てて常盤を祀ったのである。その後、常盤の解き放った白鷺が力尽きて落ちた土地に、名も知れぬ花が咲くようになった。その花は白く、まるで鷺が羽ばたいているように見えることから、人々は“鷺草”と呼ぶようになったという。
常盤が自害した場所とされるところにあるのが常盤塚である。住宅地の一角にあるが、近隣の方々によって大切に管理されている様子が分かる。さらに駒留八幡神社の境内には、常盤弁財天と名を変えて、今も常盤を祀る祠が残されている。一方、処刑された側室達を埋めたとされる十三塚というものがあったが、こちらは環状七号線建設の際に壊されて、今はない。
<用語解説>
◆吉良頼康
?-1562。武蔵吉良氏7代目。武蔵吉良氏は、三河吉良氏と同族で、足利家に繋がる名家である。頼康の時代には既に戦国大名の北条氏の支配下にあったとされるが、家臣として従属しておらずある程度の独立性があった身分であったとされる。ただ正室は北条氏綱の娘であり、北条氏康より一字を拝領している。
史実として家督を養子に譲っていて(実子はいたとされる)、それからは北条氏の家臣団に組み込まれていった。
◆駒留八幡神社
創建は徳治年間(1306-1307)。このあたりの領主であった北条左近太郎入道という者が社を建てたいと思ったところ、夢枕で神のお告げを聞き、馬に乗ってそれが止まった場所に神社を建立したという伝承が残る。
◆鷺草(サギソウ)
ラン科の植物。かつては世田谷地区に多く自生しており、区の花に指定されている。世田谷では常盤姫の伝説に付随して語られることが多く、常盤姫の実家である奥沢城の跡地である九品仏浄真寺が代表的自生地であった(一説では、白鷺を常盤姫が放ったのは自決の直前ではなく、物語の始まり、即ち常盤姫が側室になる前、実家の城付近で白鷺を飛ばしていた時に、吉良頼康の鷹が襲い、それをきっかけに二人が知り合うとする)。現在、世田谷区には鷺草の自生地は存在していない。
アクセス:東京都世田谷区上馬