那須の殺生石

【なすのせっしょうせき】

「殺生石は温泉の出づる山陰にあり。石の毒気いまだ滅びず、蜂蝶のたぐひ真砂の色の見えぬほど重なり死す」と松尾芭蕉が『奥の細道』で記した那須の殺生石は、現在でも温泉地の一角にある。昆虫や小動物がそばに寄ればたちどころに死に、場合によっては人すらも命を落とすと言われた怪石である。実際には石が瘴気を発しているのではなく、付近から噴出する火山性ガス(硫化水素・亜硫酸ガス)によって死に至るのだが、目に見えないガス故に昔の人々にとってはまさに恐怖の対象であったのだろう。

この石にはあまりにも有名な伝承が残されている。“玉藻前=白面金毛九尾狐”の話である。これは室町時代頃に『御伽草子』の一編として成立、さらにさまざまに脚色されて能・人形浄瑠璃・歌舞伎などで人気を博した題材である。

久寿2年(1155年)、“化生の前”と呼ばれる下女が鳥羽法皇の院で働き始めた。下女は容姿端麗、あらゆる知識に精通しており、あっという間に法皇の寵愛を受けて、そば近くに仕えるようになった。その後、宴席で灯りが消えた時に自ら光を放つという不思議を起こして名を“玉藻前”と改めるに至り、法皇は寵愛すると同時に畏怖の念を抱くようになった。

それを境にして法皇の体調が悪化する。医師は邪気が原因であるとし、陰陽師の安倍泰成が祈祷すべしと具申するも一向に良くならず、ついに泰成は事の真相を包み隠さず話し出す。実は“玉藻前”の正体は下野国那須野にある二つ尾の古狐であり、それが法皇に取り憑いて害をなしているという。しかもその狐は天竺や震旦の王に近づき国を滅ぼそうと暗躍した過去があり、今日本の仏法を破滅させ王朝を簒奪しようと企んでいるという。そこでその正体を見破るために、泰成は泰山夫君の祭を執りおこない、玉藻前に御幣取りの役に任じたのである。玉藻前は拒絶するが、周囲から説得を受けて渋々承知して御幣を取ったが、突然その姿を消してしまう。やはり正体は狐であり、この出来事以来、法皇の病は治ったのである。

狐が潜む那須野には、それを退治するために弓の名人の三浦介と上総介の軍勢が派遣された。しかし容易に捕らえることは出来ず、さらに鍛練をして再度臨むがそれでも捕まえることが出来ない。ところが三浦介の夢に若い女が現れて命乞いをした。それを狐の進退窮まった様子と受け取った三浦介は、翌日ついに弓で狐を射殺したのである。

こうして退治された古狐の執心が凝り固まったのが殺生石とされ、そこから発する瘴気によって生き物の命を奪うようになったのである。そして退治から約200年経った至徳2年(1385年)、那須野に立ち寄った玄翁心昭が殺生石を打ち砕き引導を渡したとされる。その時砕かれた殺生石の破片は全国にある“高田”という名の地に飛散したと言われている。現在那須野に残っている殺生石は、本来のものの一部である。また近くにある温泉神社の境内には、九尾稲荷神社がある。

<用語解説>
◆玉藻前のモデル
鳥羽法皇の寵姫であった美福門院(1117-1160)が該当するとされる。美福門院は、譲位した後の鳥羽法皇に仕え、皇子を生む(後の近衛天皇)。この皇位継承に関して美福門院が暗躍したとされ、崇徳天皇を強制的に退位させ我が子を即位させ、さらに崇徳院が院政を行えないように宣命を書き換えたとされる。また国母であるとの理由から皇后の地位を得て、さらに鳥羽法皇の中宮であった待賢門院を呪詛事件を口実に出家させて権力を握ったのである。この暗躍によって数々の対立が生まれ、保元の乱が起こったと考えられる。即ち王権の没落と新たな為政者の台頭を促した張本人であるとも言えるのである。

◆白面金毛九尾狐
九尾狐は古来より霊獣とされ、天下太平の時に現れる瑞獣と言われていた。
上記にあるように『御伽草子』では妖狐は“二尾の狐”と明記されており、かつて天竺(インド)や震旦(古代中国)に跋扈して国を滅ぼした例として耶竭陀国の斑足太子(華陽夫人にそそのかされ千人の王の首を求めた)と周の幽王(寵姫の褒似の笑顔を見たいがために諸侯の不興を買って滅ぼされた)を挙げている。
後世の創作においてこの狐の正体が“王を惑わせて国を滅ぼす傾国の美女”である例として加えられたのが、殷の紂王の寵姫であった妲己であり、『封神演義』などの諸作で妲己の正体を白面金毛九尾狐としていた。このような流れで、いつしか玉藻前が九尾狐とみなされるようになったと考えられる。
ちなみに玉藻前は、吉備真備が唐より戻る船に紛れ込んで日本に来たとされ、後に北面の武士であった坂部行綱の拾い子として育てられ院に出仕するという設定となっている。

◆安倍泰成
史実では泰成という人物は見当たらないが、鳥羽上皇や美福門院に召し出された陰陽師に安倍泰親(1110-1183)があり、モデルであると考えられる。泰親は特に占いに秀でており、安倍晴明以来の実力者と目され、災害や政変を多く言い当てたとされる。

◆三浦介・上総介
三浦介は三浦義明(1092-1180)、上総介は上総広常(?-1183)とされる。両名とも源義朝の家臣として保元の乱・平治の乱を戦い、源氏敗北後も関東にあって勢力を温存し、源頼朝挙兵の際に有力な軍勢として早期に参陣している。平治の乱にあって美福門院が平清盛を支持した経緯を考えると、源氏恩顧の武将が妖狐退治に指名された点は興味深い。

◆玄翁心昭
1329-1400。源翁とも記す。曹洞宗の僧。越後国出身。各国を巡り、会津の示現寺で没する。殺生石を打ち砕き、さらに執心する妖狐に引導を渡したとされる。この石を打ち砕く逸話より、大型の金槌を「玄能」と呼ぶようになった。

◆殺生石の破片
打ち砕かれた殺生石の破片は、“高田”と呼ばれる3箇所に飛び散ったとされ、美作・会津・安芸・越後・豊後のいずれかとされる。実際、美作の高田にある化生寺には殺生石を埋めた塚、会津の高田にある伊佐須美神社の末社である殺生石稲荷神社には謎の石が置かれている(会津にはあと2箇所、殺生石と称する石が存在する)。また殺生石を彫って地蔵にしたとされる“鎌倉地蔵”が京都の真如院に安置されている。

アクセス:栃木県那須郡那須町湯本