於岩稲荷田宮神社(四谷)

【おいわいなりたみやじんじゃ】

四谷左門町にある於岩稲荷は、旧田宮家の屋敷跡に所在すると言われる。元々田宮家内にあった稲荷社からできた神社であるが、かの『東海道四谷怪談』と絡んで取り上げられることが多い。曰く、芝居や映画で『四谷怪談』を上演する時、事前にここへ参拝しないと事故が起こるという、まことしやかな噂である。

田宮神社(この神社は田宮家の子孫が代々継いでいる)によると、実は『四谷怪談』はフィクションである。四谷左門町に田宮家が存在し、そこに“お岩”という名の女性がいたことは事実であるが、彼女が夫に裏切られ、毒を盛られて殺されたという話はまさにでっち上げである。更に夫の行状に嫉妬して失踪した“お岩”という女性があったという、土地の有力者の上申書『於岩稲荷来由書上』も存在するが、これは『四谷怪談』上演の2年後に書かれたものである。つまりこれもまた芝居の信憑性を高めるために捏造されたものであるとみなしている。

要するに『四谷怪談』とは、作者の鶴屋南北が当時の江戸で起こったさまざまな情痴事件を集大成させ、それを全て於岩稲荷に祀られていた“お岩さん”に結びつけてしまったというのが真相というわけである。

“お岩”は夫の伊右衛門を助けて火の車だった家計を立て直し、再び家を盛り返したとされる。それ故、現在の於岩稲荷は夫婦円満のご利益がある。経済的困苦を乗り越えた妻が信心していた屋敷神を、他の人があやかって信仰されてきた神社だと主張しているのである。

<用語解説>
◆『東海道四谷怪談』
文政8年(1825年)鶴屋南北作。享保年間に編まれた『四谷雑談集』を元に作られる(ここで書かれている内容は、お岩の失踪以外は芝居とほぼ同じ)。

◆『四谷怪談』の祟り
上演前に役者が参拝する慣習は以前からあったものだが、戦後に再び流布するようになったのは、参拝を怠っていた講談師・一龍斎貞山の奇妙な死と、岩波ホールで上演された際の白石加代子の奇妙な体験談(スタッフの右部位の怪我続発、飲食の際に余計に出されるコップ、更には白い着物を着た女性の目撃談など)あたりが最高潮であろうか。その後も舞台で取り上げられるたびに怪我人の話が出てくる。ただしこれは“『四谷怪談』だから起こるアクシデント”ではなく、“『四谷怪談』だから表面化するアクシデント”と捉えた方が正解だと思う。『四谷怪談』の舞台で起こるアクシデントは全て“祟り”とみなされ、喧伝されるわけである。決してこの芝居以外にアクシデントが起こっていないわけではないのである。特に『四谷怪談』の舞台は灯りをしぼった演出が施されているため、役者の怪我が多くなっているのではないかという説もある。

◆二人の“お岩”
田宮神社が主張する“お岩”は江戸初期(元和~寛永)の頃に存命していた者であり、それ以外に元禄頃にも“お岩”と名乗る女性が存在していたことが判っている。しかもこの代から100年以上田宮の名前が過去帳に現れていない事実もある。同じ名前の別人物、それも全く異なる人物像を持つ者があったために、こうした混乱が生じた可能性が高い。詳細は小池壮彦氏の『四谷怪談 祟りの正体』を参照のこと。

アクセス:東京都新宿区左門町