シラミ地蔵
【しらみじぞう】
交差点の角に建つ、近年建て替えられたと思しき小堂に安置された地蔵である。高さは光背も含めて50cm足らず、実際は地蔵菩薩ではなく、阿弥陀如来像である。この“シラミ地蔵”と呼ばれる石像は、説経節で有名な「俊徳丸」ゆかりのものである。
俊徳丸は、この地から東に位置する、高安山麓の山畑地区に居を構える信吉長者の息子であった。容姿端麗で利発な俊徳丸は、四天王寺で催される稚児舞楽の舞手に選ばれる。そして舞楽の練習のために、毎日のように屋敷から四天王寺まで通い詰めた。舞楽の練習は長時間にわたったらしく、俊徳丸が四天王寺から屋敷に戻る時間はいつも真夜中となっていた。そして帰る途中で夜が明けだすのが常であった。俊徳丸がいつも払暁通りがかる場所にあったのが、この地蔵である。そのためいつしかこの地蔵は、「シラミ(白み)地蔵」と呼ばれるようになったとされる。
俊徳丸が山畑の屋敷から四天王寺へ通っていた道は、現在“俊徳街道”と呼ばれており、おおよそのルートが分かっている。しかしこの地蔵のある場所はその街道から外れており、またこの地蔵そのものも江戸時代前期の作であると推定されている。江戸時代後期に、俊徳丸を題材として作られた文楽・歌舞伎の演目「摂州合邦辻」の人気の影響もあるのかと考えられる。
<用語解説>
◆俊徳丸伝説
上記のように、四天王寺で舞手となった俊徳丸の姿を見て一目惚れしたのが山畑の隣にある蔭山長者の娘・乙姫で、二人は将来の契りを交わす。一方、信吉長者の後妻は俊徳丸を憎み、遂に俊徳丸を失明させる。さらに業病に冒された俊徳丸は家を追い出され、盲目の乞食となって四天王寺界隈で生き長らえる。それを知った乙姫は四天王寺へ赴き、俊徳丸を見つけると共に観音菩薩に祈願する。すると俊徳丸の病気が治り、二人は夫婦となって蔭山長者の跡を継いだ。一方の信吉長者の家は、長者が亡くなると一気に家が傾き、後妻は物乞いとなって蔭山長者から施しを受ける身となってしまった。
この伝説を元に室町期に成立したのが謡曲「弱法師」、説経節「しんとく丸」であり、さらに時代を下った安永2年(1773年)に初演さたのが文楽・歌舞伎の「摂州合邦辻」である。
◆駿徳街道
四天王寺から高安(現・八尾市)まで延びる街道。高屋の山畑地区から四天王寺へ通った俊徳丸の伝説から名が採られた。なおこの街道とほぼ同じ場所を通り、さらに十三峠を越えて大和へ入り、斑鳩町の立田まで延びるのが十三街道であり、かつて在原業平が高安通いをしていた道であるとされる。
アクセス:大阪府八尾市東山本町