平将門首塚
【たいらのまさかどくびづか】
この首塚の祟りは周知のごとく凄まじい。かなり信憑性のある記録に残っているのでは、関東大震災後に大蔵省が首塚を潰して仮庁舎を建てた直後に大臣以下14名が死亡した件。そして終戦後にGHQがブルドーザーで整地中に事故が起こり死傷者が出た件。いずれもその祟りぶりは凄いものがある。
そしてオフィス街にまことしやかに噂されるのは、首塚に尻を向けた格好で机を配置すると祟られるという話である。また塚の供養を怠った企業は何らかのトラブルに巻き込まれるという話もある(首塚の隣りにあった某銀行が20世紀の終わりに破綻したのは祟りだという噂まであるらしい)。
関東で兵を起こした将門は藤原秀郷・平貞盛に討たれ、その首は京都四条河原に晒された。ところが、その首が「今ひとたび一戦を」と声を立て、三日後に自力で東国へと飛んでいったのである。そして武蔵国芝崎村にてとうとう力尽きたのだが、その首が落ちた場所がこの地である。住人が首が落ちた所に塚を作り、祀ったという。首塚の碑の後ろにある石灯籠の辺りが塚のあった場所と言われている。
この首塚の脇には蛙の置物がおかれている。将門が蝦蟇を自由自在に操ることができるということで、願いが叶うとお礼に置いていくという。そしてひときわ大きな蛙の一つであるが、誘拐された某商社のマニラ支店長が解放された直後に、真っ先に奉納したものであるという。ちなみにこの商社は首塚の隣にあり、首塚の街灯の電気代をずっと負担しているとのことである。
<用語解説>
◆平将門
?-940。桓武天皇5世。一族の所領争いから朝廷勢力に反旗を翻し、やがて関東一円を実行支配する。自ら「新皇」と名乗ることで朝敵となり、藤原秀郷によって討ち取られる。関東を中心に数々の伝承を残す。
◆江戸期以前の首塚
塚が出来た当初置かれていた神社は津久土明神(現・築土神社)。そして徳治2年(1307年)に真教上人が塚を修復して日輪寺を建立、さらに神田明神を建立する。江戸幕府成立後に、日輪寺は浅草へ、神田明神は駿河台へ移転し、首塚だけが当地に残される。
◆首塚の祟り
関東大震災で首塚が崩れたのを期に学術調査がおこなわれた。石室はあったものの、一度盗掘されていて、めぼしい副葬品が発見されなかった(最終的に将門の墓であることを証明するものは出てこなかった)ため、取り崩されて大蔵省の仮庁舎が建てられた。その後、大蔵大臣の早速整爾が病死(発病後3ヶ月で他界。享年57歳)したのを皮切りに、幹部クラスも含めて14名が2年以内に死去。政務次官・事務次官以下多数の者が足を負傷する。そこで昭和2年に仮庁舎を取り壊して、首塚を復元して、盛大な供養をおこなった。
昭和15年6月には、大蔵省庁舎が落雷によって全焼。この年は将門没後千年目に当たり、またもや祟りの噂が流れ、大蔵省による祭祀が執り行われた(現在の供養碑はその時に再建されたもの)。
戦後、大蔵省敷地はGHQが接収し、首塚は一時整地され駐車場となったが、整地時にブルドーザーが横転事故を起こして日本人運転手が死亡。土地関係者が「昔の大酋長の墓」であるとして陳情して、塚は保存されることとなった。
昭和34年に土地が返還・払い下げされると、翌年に保存会が結成され、現在に至る。
アクセス:東京都千代田区大手町