桐生稲荷(皿明神)

【きりゅういなり さらみょうじん】

全体的に整合性を欠く内容となっており、それ故伝承の域を超え出ない東京の『番町皿屋敷』の話であるが、なぜかたった一つだけ、皿屋敷に関する歴史的な遺構が存在するという。それが桐生稲荷と呼ばれる小さな祠である。

怪談『番町皿屋敷』の原典は『皿屋敷弁疑録』であるが、それ以前にもこれに類似した話が書かれている。中でも『江戸砂子温故名跡誌』では“牛込御門内で 下女が誤って井戸に皿を落としたために殺され、その後、皿を数える声だけが井戸から聞こえてきたのだが、その地に【皿明神】なる社を祀り霊を慰めたところ、声が聞こえなくなった。その社は稲荷である”とある。この話に基づいて古地図を見ると、実際にこれと比定できる稲荷社がある訳である。それが桐生稲荷である。

この社であるが、元を質せば個人の屋敷に祀られた稲荷社なのである。三田村鳶魚氏によると、この屋敷には英国公使アーネスト・サトウの家族が住んでおり、その頃には『皿屋敷』を演じる者が詣でていたらしい。現在よりも昔の方が由緒正しい社として認識されていたと見てよい。

その後この屋敷の所有者はこの地を去ったのであるが、この社だけは残していったようである。だが残された稲荷社は、やがて“お菊さんの霊を慰めた”という伝承の部分が消えてなくなり、土地の守り神としての性格だけが伝えられるようになったみたいである。そのため現在の正式名称は桐生稲荷であり、皿明神という通り名はほとんど伝えられていない。

<用語解説>
◆『番町皿屋敷』
元となった『皿屋敷弁疑録』は、宝暦8年(1758年)に馬場文耕が著している。…火付盗賊改方の青山主膳の屋敷は、かつて千姫が住んでいた屋敷の更地に建てられた。主膳は大盗賊・向坂甚内を捕らえ、その娘の菊を下女にする。菊は青山家の家宝である十枚一組の皿の一枚を割ってしまい、主膳に折檻されて指を切り落とされる。そして菊は井戸に身投げしてしまう。その後、生まれてきた主膳の子は生まれつき指が一本欠け、さらに井戸から菊の亡霊が現れて、皿を枚数を数えるに至る。この怪異は公儀の知るところとなり、青山家は断絶する。しかし井戸から菊の亡霊は現れ続けたために、了誉上人が引導を渡して菊を成仏させる。…この話はその後に歌舞伎や芝居に掛かり、評判を得て、皿屋敷伝承の主要なストーリーとなる。

◆『江戸砂子温故名跡誌』
享保17年(1732年)に菊岡沾凉が著す。

◆アーネスト・サトウの一家
サトウは1862年に通訳として来日、以降1883年まで長期滞在する(その後、英国公使として1895年に赴任)。内縁の妻に武田兼がおり、3人の子供を東京でもうけている。伊藤篤『日本の皿屋敷伝説』(海鳥社)によると、兼一家が明治10年代に住んでいた飯田町の屋敷に皿明神があり、富士見町へ引っ越しをする際に神社も移転させたという。さらに昭和50年に武田氏が移転した時にも、社を移している(兼の孫の証言)。

アクセス:東京都千代田区富士見