松江城
【まつえじょう】
松江城は、関ヶ原の合戦の功績で出雲を領国とした堀尾氏によって築かれた城である。着工は慶長12年(1607年)、天守閣完成は慶長16年(1611年)である。この天守閣建設には人柱伝説が残されている。
天守の着工を始めると、何度も石垣が崩れる箇所がある。そのため工事を成功させるためには人柱が必要であるということで話がまとまり、その犠牲者を選ぶために城下で盛大に盆踊りを催したのである。そして踊りの輪の中で最も美しく踊りの上手な娘を見つけ、有無も言わさず捕らえるとそのまま生き埋めにしてしまったという。しかしそれ以来女の幽霊が現れるという噂が立ち、また城下で盆踊りをおこなうと天守閣が鳴動するということで、松江では盆踊りが禁じられたとされる。さらに城の完成を待たずに、藩主の祖父で実質的な統治者であった堀尾吉晴は病死(息子の忠氏は着工前に死去)。そして残された藩主の堀尾忠晴も実子に恵まれることなく、寛永10年(1633年)に33歳で亡くなったために、堀尾家は無嗣断絶となってしまった。その次に出雲の太守となった京極忠高もわずか3年後に無嗣のまま死去し、断絶してしまう。
ところが、次の松江藩を継いだ松平直政の時に、人柱伝説は意外な展開となる。赴任後初めて天守閣の最上階、天狗の間に登った直政の目の前に、忽然と死に装束の女の幽霊が現れた。そして直政に向かって「この城はわらわのもの」と言い放った。それに対して即座に「ならば、このしろをくれてやろう」と返答したという。
そして次の日、直政は天狗の間にあるものを用意させた。それは三宝に乗せた魚のコノシロであった。翌朝、天狗の間に登ると、コノシロは三宝ごとなくなっていた。家臣達が方々を探すと、三宝だけが別の櫓で見つかったが、コノシロだけはとうとう見つからなかった。それ以来、女の幽霊は姿を現さなくなり、噂も消えてしまったという。
実は、この人柱伝説の重要な舞台となった場所は判明している。天守の南東側にあった“祈祷櫓”と呼ばれるところである。松江城が出来る前この場所には荒神を祀った塚があったとされ、これを他所に移して櫓を建てたが“たびたび石垣が崩れた”ために、この櫓で祈祷がおこなわれたとされている。さらに、松平直政の伝説で、三宝が見つかったのもこの櫓なのである。おそらく人柱となった娘はこの辺りに埋められたのであろうと推測されるわけである。
この人柱伝説とは別に、築城の際に起こった怪奇な伝説がある。
築城が進んだある時、石垣が崩れた。不審に思った堀尾吉晴が調べさせたところ、石垣の下の土中から、槍の穂が刺さったままのしゃれこうべが出てきた。そこで、これを丁重に葬ると、その後は変事は起こらなくなったという。さらにこの掘り出された場所から水が湧き出てきたために井戸を作り、これを“ギリギリ井戸”と呼ぶようになったという(“ギリギリ”とは、地元の方言で“つむじ”を指す)。今では井戸はなく、その跡地だけが示されている。
<用語解説>
◆堀尾吉晴
1544-1611。早い時期より羽柴秀吉付きの武将となり、最古参の一人として信任を得る。豊臣政権では中老として政務にあたる。関ヶ原の戦いの前年に、忠氏に家督を継がせて隠居。忠氏急死後は、孫の忠晴の後見として執政した。松江城完成とほぼ同時期に死去。
◆堀尾忠氏
1578-1604。関ヶ原の戦いの前年に家督を継ぎ、関ヶ原の戦いの功績により出雲・隠岐24万石を与えられる。居城を月山富田城から松江に移すことを決めたのは忠氏とされる。領内検分の際に神魂神社の禁足地に単身入り込むが、戻ってきた時には既に顔色を失い、そのまま病床に就きほどなく病死する。一説では禁足地でマムシに噛まれたとされる。小泉八雲の書いた人柱伝説の中では、人柱にされた娘は全部で3人であり、堀尾氏が3代で断絶したのはその祟りであるとしているが、実際には忠氏は松江城着工前に亡くなっている
◆松平直政
1601-1666。徳川家康の次男・結城(松平)秀康の三男。兄である松平忠直の下で大坂夏の陣に奮戦し、独立した大名となる。寛永15年(1638年)に出雲18万石の太守となる。その後明治維新まで松平家が松江藩主として続く。
アクセス:島根県松江市殿町