キリシタン洞窟礼拝堂
【きりしたんどうくつれいはいどう】
日本国内では類例を見ない、凝灰岩をくり抜くように掘られた礼拝堂である。幅3m、奥行き3m、高さ3.5mの広さがある。現在は5つの窓がはめ込まれていて、中を覗くことが出来る。また右隣には、神父が隠れ住んでいたという洞窟跡も残されている。
キリスト教が伝来した当時、豊後国は大友宗麟が治めており、竹田地方はその一門衆であった志賀親守が統治していた。親守は熱心なキリシタンであり、竹田は豊後国内でもキリシタンが多く住む土地となる。さらに時代がくだり、天正15年(1587年)に豊臣秀吉がバテレン追放令を出してキリスト教を禁教としたが、この時の領主であった志賀親次も積極的にキリシタンを匿っていたとされる。
その後、大友氏が改易されると 新たに中川秀成が入封。関ヶ原の戦いを経て岡藩となる。その家老職にあった古田重直が、大坂の陣の直後に大阪城にいたナバロやブルトリノといったイエズス会神父を竹田に匿ったとする古文書が見つかっている。その家老・古田家が住んでいたのが、この洞窟礼拝堂のあった場所であった。このことから、この礼拝堂はおそらくこの時期に造られたものであると推測される。そして大名家の家老職にある者の所領内であったために、破却されることもなく残され続けたのであろう。
<用語解説>
◆志賀親守・親次
志賀氏は大友氏の傍流とされ、加判衆という重職にあった。親守は大友宗麟(義鎮)の家督相続の際に貢献。また自身もキリシタンとして洗礼を受ける。同じくキリシタンである孫の親次は、島津の豊後侵攻の際に岡城で2度にわたって撃退して秀吉から激賞され、半ば独立した大名格であったとされる。『日本切支丹宗門史』では、“シンガ(志賀)の殿が、宣教師の存在について見て見ぬふりをしていた”との記述もあり、庇護者であったとされる。
◆古田重直
母方の祖父に当たるのが古田織部。織部は岡藩初代藩主の中川秀成の父と義兄弟であり、その関係から岡藩の家老職に就く。重直が大阪城にあったイエズス会神父を匿った件であるが、これに符合するような事実として、古田織部は大坂の陣直後に豊臣氏に内通して矢文などをおこなっていたとして切腹を命じられている。
アクセス:大分県竹田市殿町