源三窟

【げんさんくつ】

源三窟は塩原温泉の西部、塩原街道に面した場所にある鍾乳洞である。約50mの長さの鍾乳洞がメインの観光スポットで、資料館などが併設されている。この鍾乳洞にはある武将にまつわる伝説がいつ頃からか伝わり、これを元にしたジオラマが洞内で展開されている。

打倒平家を計画した以仁王の令旨が全国に発せられた時、京都で呼応したのが摂津源氏の源頼政・仲綱の父子である。しかし宇治川を挟んだ一戦で敗れた頼政・仲綱さらに仲綱の嫡男であった宗綱は、平等院で自刃して果てるという結果で終わる。その一方、仲綱の次男であった有綱は、祖父らの挙兵時、たまたま父の領国であった伊豆にあった。そして直後に挙兵した源頼朝の軍勢に合流し、その麾下に入ったのである。

頼朝の軍勢が打倒平氏を掲げて西国へ攻め上る中、有綱は土佐を平定(土佐は頼朝の同母弟・希義が挙兵し敗死している)。ついで源義経の与力として加わって壇ノ浦の戦いまで転戦、さらには平氏滅亡後に義経の婿となって(義経の実娘であると年齢的に釣り合わないため、おそらく養女あるいは実妹を娶ったと考えられる)、腹心として行動を共にすることになる。頼朝と対立した義経が船で九州へ渡ろうとして遭難した際、有綱は武蔵坊弁慶・静御前らと共に最後まで付き従い、吉野へ潜伏している。そして史実では、吉野で義経一行から離れた有綱は大和国宇陀(義経の母・常盤御前の生誕地とされる)に潜伏するも、義経探索の追っ手に見つかって交戦、最期は自刃して果てたとされている。

ところが源三窟の伝説によると、吉野で義経と別れてから有綱は東国へと再起を図るために逃れ、この塩原まで辿り着いたところで塩原八郎家忠に捕らえられると、この鍾乳洞に匿われたようである。しばらくこの洞内で生活をして再挙の時を窺っていたが、ある日洞内の滝から米のとぎ汁が外へ流れ出たことから潜伏の秘密が露見、たちまち頼朝の軍勢が攻めてきて遂に洞内で自刃したという。この伝説より源三位頼政の孫の潜伏・終焉地として、鍾乳洞には“源三”の名が付けられている。

なお併設の武具資料館には、洞内から発見された古い甲冑が展示されている。これが曰く付きの一品で、かつて洞内で展示してあったこの甲冑を写真に収めると幽霊が写ったとされ、1970年代にテレビ番組で紹介されたことがあるとのこと。

<用語解説>
◆源頼政
1104-1180。摂津源氏の系統で源頼光の玄孫にあたり(源頼朝は河内源氏の系統)、朝廷・院に仕えて内裏の警護を任じられる。平治の乱では平清盛側につき、平家政権において一定の地位を維持した。晩年には清盛の推挙によって従三位となり公卿に列し“源三位”と呼ばれる。「鵺退治」や「菖蒲御前」の伝説でも有名。

◆源仲綱
1126?-1180。源頼政の嫡子。源頼朝が伊豆へ流罪となった時の伊豆守。父と共に以仁王の挙兵に加わり、敗死。この挙兵に加わった理由は、仲綱所有の馬を平宗盛が所望し、侮辱を受けたことにあるとの説がある。

◆塩原八郎家忠
生没年不明。平治の乱(1156年)の頃に塩原郷を領有したことが記録に残る。

アクセス:栃木県那須塩原市塩原