耳なし地蔵

【みみなしじぞう】

戦いを避けて落ち延びた安徳天皇が行宮を置いたとの伝説が残る横倉山の北東麓にある地蔵である。国道33号線に面したところに入口があり、それなりに目立つ看板があるので、あとは案内板に従って林の中を歩いて行けば道なりにたどり着く。

この不思議な名前の地蔵であるが、実際に両耳がない。これには曰く付きの伝説が残されており、寛永の頃(1624~1645年)に起こった出来事として伝え聞いた、佐川深尾家の家臣であった国学者・伊東乗興が明治維新頃に書き記している(『越知町史』にも全文が記載されている)。

横倉にあった横倉寺の住職の英仙は学徳の高い僧として知られていたが、その頃松山の方からやって来た城了という名の琵琶法師を寺に留め置き、その琵琶を聴くのを楽しみとしていた。ところがその城了は夜半になると寺を抜け出して何処かに出かけるようになった。不審に思った役僧が尋ねると、城了は次のように打ち明けた。

子の下刻になると男の宮人と思しき方が現れ、主人が琵琶を聴きたいと仰せにつき一緒に来られたいと言う。到着した館は広大で、長い廊下を歩いて西北向きの広間に出ると、女官から「御上がおわすのでここで一曲琵琶を弾け。ただし源氏の名を出してはいけない」と言われた。弾き終わると色々ともてなされ、帰りは同じ男に連れられて寺に戻った。それから毎夜のように呼び出され、御上が気に入れば数曲を弾いたこともあった。ある時呼びに来る男に館は何処にあるか尋ねると、鞠ヶ奈呂という場所にあると言われた。

役僧が英仙に話を伝えると、城了を呼んでくわしい話をした。御上は安徳天皇の霊であり、召し出されることは光栄ではあるが、幽冥界に頻繁に行けばいずれは命が果てることになるだろうと。そこで英仙は、仏前で祈祷した香水を用意して、城了の全身に塗ったのである。

翌朝、城了の様子をうかがうと無事であったが、両の耳朶が根元からちぎられていた。香水の力で全身を隠したはずが、耳朶だけ香水が行き足りなかったため、難に遭ったのである。

それから城了は数年ほど滞在し、横倉寺で亡くなった。遺体は寺の北側の先達野に埋め、墓の上に地蔵を置いたが、地蔵は記念(おそらく祈念の誤りか)のためにその両耳がない状態で祀られた。これが耳なし地蔵の由来である。

読めばすぐに気付くが、この話は小泉八雲の「耳なし芳一」とほぼ同じ内容である。この話が事実であるかどうか、また「耳なし芳一」と関連があるのかははっきりしないが、ただ安徳天皇が隠れ住んだとされる伝説の地にもこのような怪異譚が伝えられているのは非常に貴重であるだろう。

<用語解説>
◆横倉山
標高800mの山で、山頂に安徳天皇を祀る横倉宮や安徳天皇陵墓参考地がある。現在でも陵墓のあるあたりは“鞠ヶ奈呂”と呼ばれ、かつてここで安徳天皇が臣従する者(平家の落人)と蹴鞠をしたと伝えられている。
また安徳天皇の伝説より前、10世紀頃にはこの地を治めた別府経基が三聖大権現を祀り、修験道の拠点として大いに栄えていた。

◆横倉寺
天正3年(1575年)にこの地を治める豪族の片岡光綱が創建。元禄時代には藩主の山内氏および家老の深尾氏から寺領を寄進され、伽藍と12の僧坊を持つ大寺院であった。明治の廃仏毀釈により廃寺となるが、明治29年(1896年)に再建。現在は本山修験宗聖護院門跡に属する。

◆「耳なし芳一」との関連性
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の『怪談』に収録された「耳なし芳一」の話については、その出典となったのが『臥遊奇談』の第二巻「琵琶秘曲泣幽霊」とするのが定説である。また赤間ヶ関を舞台にした怪異譚は享保19年(1734年)に出された『御伽厚化粧』にもあり、また亡霊に耳などを引きちぎられる話は各地に散見されることから、『臥遊奇談』と“耳なし地蔵由来”とは類話ではあるがどちらかが模倣された話であるとは言い切れず、むしろ各々が独立して成立した可能性の方が強いようにも考えられる。
ただし引用した『越知町史』には、小泉八雲が明治30年(1897年)頃に松山を訪れた際に妻の小泉節子がこの“耳なし地蔵由来”を語り聞かせ、それを元にして八雲が作品を書いたと記載されている(真偽のほどは不明)。

アクセス:高知県高岡郡越知町越知