桔梗塚
【ききょうづか】
所在地から分かる通り、これは平将門の愛妾であった桔梗御前の墓であると言われている。
佐倉の地は平将門の支配地であり、特にこのあたり一帯に将門の居館があったとされ、今でも将門を祭神とする将門口ノ宮神社がある。そして桔梗塚は、この将門口ノ宮神社の奥宮という位置付けとなっている。神社からは直線距離にして約300mほど南に下ったところ、周囲は畑で巨木が1本立っているのが目印である。
ただ桔梗御前の墓とされるものは関東各地にあり、またその伝説も細かな部分でいくつかのパターンに分かれている。最大公約数的な話としては、桔梗御前は将門の愛妾であったが、その重大な秘密を敵方に漏らしてしまったために命を落としたということになる。
佐倉に伝わる桔梗御前の伝説では、将門の愛妾であったにもかかわらず敵方の藤原秀郷になびき、将門と七人の影武者に関する秘密を教えてしまう。即ち将門の影武者は陽が当たっても影が出来ない、また将門は不死身のように強いがこめかみだけは常人と変わらず柔らかいため矢を突き刺すことが出来ると。これを知った秀郷はついに将門を倒したが、将門は桔梗御前の裏切りを悟り「この地に桔梗は咲くな」と叫んで絶命した。そのため、この付近には桔梗が花咲くことはないという。ただ佐倉の伝説では、桔梗御前の最期についてはほとんど触れられておらず、将門か秀郷の手に掛かって死んだのか、あるいは天寿を全うしたのかは不明である。
<用語解説>
◆平将門
?-940。父親の良将の所領が下総国佐倉であると伝えられており、この地を出身地とする説がある。親族との土地争いから、朝廷に対して反旗を翻して「新皇」を名乗り、関東一円を一時的に支配した。朝敵として討ち取られるものの、関東一帯の守護神として崇敬を受ける。
◆将門口ノ宮神社
祭神は平将門。創建時期は不明であるが、一族の千葉氏によって建立されたものと推定される。後に佐倉藩主の堀田正信によって鳥居が奉納されている。また後に義民・佐倉惣五郎も合わせて祀られた(百年忌を機に藩主の堀田正亮の命による)。
◆桔梗御前の諸説
その出自については地元豪族の娘であるとも、藤原秀郷の妹で将門の秘密を探るべく愛妾となったとの説もある。またその最期については、将門によって誅せられたとも、秘密の漏洩を怖れた秀郷によって暗殺されたとも言われる。
アクセス:千葉県佐倉市将門町