吉良神社 七人みさき

【きらじんじゃ しちにんみさき】

豊臣秀吉に屈して土佐一国の主となった長宗我部元親であるが、さらにその身に不幸が訪れたのは、嫡男であった信親の討死であった。我が子討死の報を聞き自害しようと取り乱したとの話が残るほどであり、その嘆きは尋常のものではなかったと言える。そしてそれを端に発して、さらなるお家騒動が勃発する。

新たに家督を継ぐ者として元親が指名したのは、末子の千熊丸(後の盛親)であった。しかも元親は、亡くなった信親の娘を千熊丸に嫁がせると決めたのである。それに真っ向反対したのが、元親の甥であり婿でもある吉良左京進親実である。長宗我部の家督については、既に秀吉から元親次男の香川親和とする朱印状が出されている。そして何と言っても、元親の裁断では叔父姪の間の婚儀となり人倫に背く行いである、と。親実の主張は正論であるが故に、元親の不興を買うことになった。

さらに側近の久武親直が、日頃から犬猿の仲であった親実らのことを讒言したため、遂に元親は意を決して親実及び比江山親興に切腹の沙汰を下したのである。天正16年(1588年)10月のことである。

切腹の命を親実が受けたのは、ちょうど碁を打っている最中であった。屋敷に戻り、作法に則り用意をした親実は「一門の者として君を諫める立場にあったが、佞臣によって忠義の道を絶たれた。当家は間もなく滅びよう」と言い残し、腹を真一文字に切り腸を引き出して死んだのである。

さらに元親は命じて、親実の治めていた蓮池城の留守を守る重臣ら、親族で名のある者たちを自害させるなど根こそぎ誅殺した。その主立った者は、親実の庶兄である僧・宗安寺真西堂(如淵)、同じく姻族で神職の永吉飛騨守宗明、蓮池城を預かる重臣・勝賀野次郎兵衛、その他にも城ノ内太守坊、吉良彦太夫、小島甚四郎、日和田与三右衛門の七名であった。

この事件は人々を怖れさせたが、さらにここに奇怪なことが起こった。親実ゆかりの地で八人の主従の亡霊が出現するようになったのである。主のいなくなった蓮池城下を夜陰に乗じるように呻き声を上げて人馬が宙を駆け回る音がした。また親実の墓や長宗我部の城周辺でも夜ごとに怪火が現れ、それに遭遇した者は命を落とすか大病になったという。さらに仁淀川の渡し船の船頭は姿の見えない数名連れの者を乗せて川を渡ると、その降りがけに「我は左京進の亡霊なり。怨みを晴らさんために一党率いて城に急ぐものなり」という声を聞いたという。

その翌日、親実切腹の讒言をした久武親直の屋敷前に老婆が現れて久武の次男を抱え上げると、次男は人事不省に陥りその晩に急死。その三七日目の忌日に長男が発狂して仏間に籠もり、さらにその三七日後にとうとう仏間で腹を切る。しかも今際の際に「上使二人が来て詰め腹を切らされた」と言い残して死亡。そして七七日には母親も狂死し、親実の祟りであるとまことしやかに言われた。(久武には八人の子があったが、そのうちの七名までがわずかのうちに死んでしまったという話も残る)

そのうち怪火だけではなく、白馬に乗った首のない侍や鉄棒を持った大入道が現れるなどの怪異が城内でも目撃されるようになり、さしもの元親も捨て置けなくなり、親実以下の者の供養をおこなうよう命じた。そして結願の日。身分を問わず多くの者が祈りを捧げ、僧侶が読経する中、突然祭壇に置かれた一党の位牌がガタガタと動き始めたと思うと、そのまま中空に飛んでいってしまったのである。自分たちの怨みはそのようなものでは鎮まりはしないと言わんばかりの様子に、人々は恐れおののいたのである。

その後、寛文6年(1666年)、土佐山内家は親実の墳墓を改葬し、その上に親実を祭神として新たに社殿を建てた。それが現在ある吉良神社である。そしてその本殿脇には、この騒動で亡くなった七名の者を祀る七所神社が置かれており、この七名を以て「七人みさき」とする旨が表示されている。

<用語解説>
◆長宗我部元親・盛親
土佐の岡豊城主。元親(1539-1599)は土佐一国を領有すると瞬く間に四国を統一したが、豊臣秀吉の大軍の前に屈し、土佐一国を安堵される。その後、秀吉の九州攻めの先鋒として出陣した際に嫡子の信親を失う。盛親(1575-1615)は元親の4男。関ヶ原の戦いの折に西軍に与したため、最終的に所領没収となる。大坂の陣で豊臣方に付いて再起を図るが、捕縛され斬首となる。
元親が盛親を後継とした理由は諸説あるが、次男・香川親和と三男・津野親忠は共に他家に養子に出ている点、信親の娘を娶ることを条件としたためそれに見合う年齢の者が盛親のみであった点など、合理的な側面もあるとされている。

◆吉良親実
1563-1588。父は長宗我部元親の実弟・吉良親貞。妻が元親の娘であり、一門衆の中でも最も力があったとされる。吉良氏は源頼朝の実弟・源希義の流れを汲む名家であったが、親実の死によって断絶した。

◆久武親直
生没年不明。『土佐物語』によると、「家督を継がせるのは危険」と実兄より長宗我部元親に対して進言があったとされ、盛親家督継承の一件では私怨から元親に讒言して吉良親実を死に追いやり、さらに関ヶ原の戦いの直後に盛親の兄である津野親忠を謀殺したために改易となったとされる。奸臣の典型のように描かれているが、長宗我部家の没落の元凶を一身に引き受けた感がある。

◆比江山親興
長宗我部家の重臣。元親の従兄弟に当たる。盛親家督継承の騒動の際に、吉良親実と同じく異を唱えたため、自害を命ぜられた。
なおその死の直後、妻子を始め、それらを匿った寺僧などが殺害され、その数が比江山を含めてちょうど7名となったされる。いわゆる【比江山七人みさき】と呼ばれ、吉良親実主従の祟りと同じく、当時から怖れられたという。

◆「七人みさき」
中国四国地方で多く見られる妖怪の名前。7名の亡霊から成り、その祟りによって人が死ぬと、7名のうちから1名が成仏し、新たにその死んだ者が7名の中に加わり、常にその数が7名で行動するとされる。その出自は、無念の死を遂げた武士、遭難した漁師、無残に殺された山伏や遍路など、理不尽な死を迎えたあらゆる職種の人間がなると考えられている。
また“みさき”は“御先”と書かれ、先導者や神使の意味で用いられ、上記のような非業の死を遂げた者が祟り神となった場合の名称としても用いられる。
特に吉良親実主従の「七人みさき」は、数ある事例の中でも最も代表的なものとされ、この伝承自体が「七人みさき」の原形であるとも言われる。しかし“七”という人数については、この騒動で亡くなった人数を表すものではなく(流布している伝説では七名の家臣は自ら腹を切って“殉死”したものとされているが、実際には自害とは認められない状況もあり、さらに言えば七名以外にも多数の家臣が殺されていると考えられる)、むしろ意図的に“七”という数字に人数を調整している感があり、何らかの意味が込められていると推察できる。

アクセス:高知県高知市春野町西分