赤蔵ヶ池

【あぞがいけ】

平成22年(2010年)、農林水産省の「日本のため池百選」に選ばれた湧水地である。山頂部の窪地に水が溜まったもので、周囲は575mある。観光地として周辺はかなり整備されているが、そこへ至るアクセスは結構きびしいものがある。

この池には源三位頼政にまつわる奇怪な伝説が残されている。

この地では、頼政の母は河野親孝の庶兄・寺町宗綱の娘であるとしている。京で生活していた母と子であったが、世はまさに平家の全盛。それに不満を持っていた母はついに京を離れ、故郷へ隠棲してしまった。だが山深い村での侘しい生活をしながらも、やはり母は我が子の立身出世を願い続けた。その思いはむしろ京にいた頃よりも深く激しく、遂には大願成就を祈願したのである。

近くの山で採れた竹を使って2本の矢を作ると、それを早速頼政の許へ送り、これで功を立てるよう申し添えた。そして近くの赤蔵(あぞう)神社へ参拝して頼政の昇進と源氏の再興を祈念。さらにその足で山頂の赤蔵ヶ池に赴くと水行をし、近隣の40近い神社へも足を運んで日々願を掛けたのである。

満願の33日目。赤蔵ヶ池で水行していた母に異変が起こった。いつの間にか人の姿から異形のものに変じていたのである。頭は猿、胴は狸、手足は虎、そして尾は蛇という奇怪な姿に。そしてヒョーヒョーと不気味な声を上げると、空高く東に向かって飛び去ったのである。

やがて京では夜な夜な紫宸殿の上空に奇怪な泣き声を上げるあやかしが現れ、時の天皇を悩ませた。然るべき者に退治させようと白羽の矢が立てられたのが頼政であった。源頼光や義家などの剛の者を輩出した源氏以外に、この任に相応しい者はなかった。召し出された頼政は、母から贈られた2本の矢をつがえ、中空にあるあやかしを見事射止めたのである。それが母の化身であるとも知らずに。

退治されたあやかしである母の化身は、深手を負いながらも京の都から故郷の赤蔵ヶ池に舞い戻ってきた。そして射られた折から赤く染まった池の中に飛び込んで、そのまま池の主となった。だがそれも束の間。池の主となった母は、受けた傷が元で池の底で命運尽きたという。その直後、頼政は突如平家に反旗を翻し、あえない最期を遂げてしまったとも言われる。

赤蔵ヶ池のある山の麓にあたる場所に、現在も赤蔵神社が建っている。また道なりに進むと、母が贈った矢の材料となった竹(双生矢竹)の群生地がある。奇譚と言うべき伝承は、今もこの地で生き続けている。

<用語解説>
◆源頼政
1104-1180。摂津源氏の出で、保元・平治の乱を経て平家全盛の時代に、源氏の長者となる。最終的に従三位を授かり、公卿の地位に上りつめる。最後は以仁王の令旨に応じて平家に対して兵を挙げるが、衆寡敵せず宇治の平等院にて自害した。
なお史実では、母親は藤原南家・藤原友実の娘とされている。

◆河野親孝
河野氏の祖とされる越智玉澄から数えて19代目、平氏との戦いで討死した河野通清の曾祖父にあたる。河野氏の祖である越智氏は伊予国の名族であり、その系譜は神代にまで遡る。

◆赤蔵神社
仁平3年(1153年)正月に創建とされる(鵺退治の伝承の残る近衛天皇の御代)。源頼政の母が、我が子の昇進と源氏再興を祈願したという伝承が残る。

◆頼政の鵺退治
『平家物語』によると、近衛天皇の御代(1142-1155)とされる。東三条の森からあやかしが現れたため、頼政に命じて射落としたとされる(落ちた鵺に止めを刺したのは家臣の猪早太)。そして死骸はうつぼ舟に乗せて川に流したとされる。また同書には、二条天皇の御代(1158-1165)にもあやしい鳴き声がしたため頼政が退治したとされる。さらに別説では高倉天皇の御代(1168-1180)の頃の事件であるとされる。

アクセス:愛媛県上浮穴郡久万高原町沢渡