志度寺 海女の墓
【しどじ あまのはか】
四国八十八箇所霊場の第86番札所。創建は推古天皇33年(626年)、流れ着いた霊木から本尊を彫って祀ったのを始まりとする。その後、藤原不比等・房前親子が堂宇建造に深く関わったとされる。
志度寺の境内の一角に「海女の墓」と呼ばれる五輪塔群がある。この墓には藤原不比等・房前親子にまつわる伝説が残されており、志度寺縁起にある「海女の玉取伝説」として有名である。
藤原鎌足は娘・白光を唐の高宗の許に嫁がせた。やがて父が亡くなった知らせを聞いた白光は、日本へ3つの宝物を供養にと送った。ところが、それを船で運ぶ途中、志度沖で龍神がその宝物の1つ“面向不背の玉”を奪ってしまったのである。そこで、鎌足の跡を継いだ不比等は“淡海”という変名を使って志度の地に赴き、玉の行方を探索することとした。そしてその最中に玉藻という名の海女と出会い、恋に落ちて男児をもうけるまでに至ったのである。
時が経ち、不比等は玉藻に自分の素姓とこの地へやって来た目的を明かした。玉藻は玉が龍宮(真珠島)にあることを突き止めるが、龍神が常に守っているために奪い返せない。決死の覚悟で奪還を試みるが、取り戻した途端に龍神に襲われてしまう。傷つき息も絶え絶えとなった玉藻は最後の力を振り絞って、護身の短刀を自らの乳房下に突き刺して十字に切り裂くと、その中に玉を押し込めて海面にまで辿り着いた。駆け寄る不比等に取り出した玉を渡し、残された男児を藤原家の跡取りにと頼むと、玉藻は息を引き取ってのである。
不比等は亡くなった玉藻の遺骸を志度寺に葬ると、残された男児を都に連れて帰った。後にその児は藤原房前として政治の表舞台で活躍した。だがある時、自分の母親の最期を聞くと、志度寺に赴いて新たに堂宇を建て、さらに1000基の石塔を建立したという。これが現在「海女の墓」と呼ばれるものである。
志度寺の周辺には、海女が玉を取り戻して帰還した真珠島の跡も残されている(現在は埋め立てにより島の形ではないとのこと)。
<用語解説>
◆藤原不比等
659-720。藤原家初代の鎌足の次男(長男は出家したため、実質的な後継者)。父の死去の時は11歳であり、壬申の乱後の天武天皇の時代は冷遇されていたとされる。持統天皇後の文武天皇擁立に功があり、この頃より藤原姓を名乗るようになり、政治の表舞台に出る。娘を文武天皇夫人に、さらにその間に生まれた皇子(後の聖武天皇)の夫人にも娘(光明子)を送り、政治基盤を確立する。
死後、淡海公の追号があり、これが変名の“淡海”の元であると考えられる。
◆藤原房前
681-737。藤原不比等の次男。史実では、母は蘇我氏。藤原四兄弟の中で最初に参議となるなど、政治的に優れていたとされる。また長屋王の変で長屋王を失脚させ、藤原四兄弟による政権を樹立させる。しかし天然痘に罹り、四兄弟の中で最初に亡くなってしまう。房前の子孫は、藤原北家として平安期に摂関政治の中枢にあって大いに繁栄することとなる。
◆高宗
628-683。唐の3代皇帝。高句麗を滅ばして唐の最大版図を築く(後に新羅に奪取される)。皇后は、中国三代悪女の一人とされる則天武后。ちなみに高宗の后妃に藤原氏の息女など、日本人がいたという記録はない。
◆面向不背の玉
玉の中に釈迦如来の像があり、どこから見てもその像が正面を向いているという宝物。もたらされた3つの宝物(袈裟を掛けるまで鳴り止まない金鼓という華源磬、墨をすると水が湧き出てくるという泗濱石、そして面向不背の玉)は不比等の手によって興福寺に収められており、玉以外の2つは現在でも収蔵されている。
面向不背の玉だけでは平安末期に焼失したとされていたが、昭和51年(1976年)滋賀県竹生島の宝厳寺に安置されていたことが判明。現在でも宝物館に収蔵されている。
アクセス:香川県さぬき市志度