虎姫観音

【とらひめかんのん】

群馬県庁の西側、利根川河畔に六角形のお堂がある。昭和43年(1968年)に建立された、比較的新しいお堂であるが、その由来は江戸時代前期にまで遡る。

延宝6年(1678年)、厩橋城主の酒井雅楽頭(忠清)は赤城山での鷹狩りの最中に、お虎という名の美しい娘を見初める。お虎は早速城に召し出され、雅楽頭の身の回りの世話をするように命ぜられる。このただならぬ寵愛ぶりに嫉妬に駆られたのが、以前からいた奥女中達である。色々とお虎のあらを見つけようとするが、全くそのようなものは見当たらない。とうとう女どもはお虎を罠にはめようと、雅楽頭の飯茶碗に折れた針を忍ばせたのであった。何も知らないお虎が差し出した茶碗飯から針を見つけた雅楽頭は激怒。さらに奥女中の讒言を鵜呑みにすると、可愛さ余って憎さ百倍、有無も言わさずお虎を蛇や百足の入った箱に押し込めると、生きたまま利根川の淵へ沈めてしまったのである。

その惨い仕打ちを受ける際、お虎は「城を取り潰し、七代まで祟ってやる」と言い放ったという。そしてそれ以降、毎年利根川は氾濫し、そのたびに城の建つ土地は浸食されるようになる。宝永3年(1706年)には本丸の櫓が倒壊。明和4年(1767年)、遂に本丸倒壊の危機となり、城は打ち棄てられることになったのである。酒井忠清から数えて七代目の藩主の時であった。

虎姫観音は、無惨な死を遂げたお虎の霊を慰めるため、お虎が沈められたとされる淵あたりに建立されたものである。

<用語解説>
◆酒井忠清
1624-1681。4代将軍・家綱の時代に老中、さらに大老の地位にまで上り詰める。その権勢は将軍に匹敵し、邸が江戸城の下馬先の近くにあったため“下馬将軍”という異名が残る。家綱の死後、将軍が綱吉に代わると大老職を解かれ、その1年後に死去する。

◆前橋(厩橋)藩
関ヶ原の戦い後、酒井重忠が藩主となり、それ以降、酒井家が代々受け継ぐ。忠清は4代藩主。酒井家9代藩主の忠恭の時、寛延2年(1749年)に姫路へ移封、代わって姫路から松平朝矩が入封する。そして朝矩の代で前橋城本丸が倒壊のおそれがあるため、同領内の川越へ藩庁を移転することとなり、前橋藩は事実上廃藩となる。

アクセス:群馬県前橋市大手町