河童渡来の碑

【かっぱとらいのひ】

八代市街を流れる球磨川は河口のそばで分岐して八代海に注ぎ込む。その一番北側の分岐である前川に架かる前川橋のたもとに河童渡来の碑がある。

八代の伝承によると、仁徳天皇の御代にこの地に河童がやって来たという。やって来たのは中国、揚子江(あるいは黄河)を下って東シナ海を泳ぎ切って上陸してきたというのである。これらの河童たちは球磨川流域に住み着き、いつしか一族郎党合わせて9000匹にまでなり、その頭領は九千坊(くせんぼう)と呼ばれ、西国一の河童とまで言われるようになったのである。

河童渡来の碑に使われている2つの石はガワッパ石と呼ばれる。その由来は、渡来した河童があまりにも悪戯をするので、怒った人々が河童を捕らえたところ、「2つの石がすり切れるまで悪戯をしない代わりに、年に一回祭りをして欲しい」と頼み込んだため許したことにある。この石は長らく橋石として使われていたとされ、昭和29年(1954年)に今のような碑となった。また年一回の祭りは“オレオレデーライタ川祭”として今に伝えられている。

<用語解説>
◆仁徳天皇
第16代天皇。歴史学的には5世紀前半頃に在位したと推測される。ただ記紀の記録では、在位期間は87年に及び、おおよそ4世紀頃の在位とされている。

◆九千坊
延享3年(1746年)に発行された『本朝俗諺志』(著:菊岡沾涼)によると、渡来した後の九千坊は球磨川を根城にして暴れ回っていたが、ある時少年を溺死させた。ところが少年は加藤清正お気に入りの小姓であったために清正が激怒。河童の苦手な猿を九州中から集めて戦を仕掛けたという。九千坊は結局戦わずに球磨川を退去し、久留米の有馬公の許しを得て筑後川に移り、水天宮の使いとなったという。また“西国一の河童”と称されるのは、利根川一帯を支配する女河童の禰禰子河童に完膚なきまでにやられてしまったためとされる(有馬公が江戸に水天宮を祀って以降の話であると推測されるが、全く不明)。

アクセス:熊本県八代市本町