宝積寺 お菊の墓
【ほうしゃくじ おきくのはか】
宝積寺は、国峰城を拠点とした豪族・小幡氏の菩提寺である。本堂の裏手の高台に、小幡氏累代の墓がある。その傍らに「菊女とその母の墓」が今なおある。
菊女は、小幡信貞の腰元として寵愛されていた。しかしそれに嫉妬した正室が、信貞不在の折に、膳飯の中に針を入れるという無実の罪を着せて、樽に蛇や百足と共に押し込めて、菊が池に沈め殺してしてしまったのである(あるいは信貞本人が処刑を命じたとも)。伝承では、この菊女の助命嘆願をしたのが宝積寺の住職であり、小柏源介という者が菊女を救い出したが、既に事切れていたとされる。これが天正14年(1586年)のことと伝わっており、それから4年後に豊臣秀吉の小田原攻めがおこなわれ、小幡氏は北条氏滅亡と共に歴史の表舞台から消えてしまう。
小幡氏の滅亡後も、菊女の祟りと言われるものがあったとされ、宝積寺では度々追善供養をおこなっていた。さらに明和5年(1768年)に菊が池に大権現として祀られ、平成5年(1993年)には菊女観音像が建立されている。
実は、この菊女の伝説が『番町皿屋敷』の原型の1つであるという説がある。上野の小領主として滅亡した小幡氏であるが、その後は信貞の養子(実子はいなかった)が幕府旗本をはじめ、松代の真田家、紀伊の徳川家、加賀の前田家、姫路の松平家にそれぞれ仕官しており、その子孫から各地の「皿屋敷」伝説が形成されていったと考える説である。(永久保貴一氏による)
「皿屋敷」伝説とは直接関係ないが、小幡氏には菊女の祟りがつきまとい、さらにその祟りが移動によって伝播しているとも取れる怪談話が残されている。
真田藩が沼田から松代へ移封される時、家臣の小幡上総介信真もつき従ったのだが、松代へ着くと駕籠代を多く取られた。不審に思って尋ねると、二十歳ばかりのやつれた女性が乗っていた駕籠があったという(あるいは、誰が乗っているのか判らない女駕籠があったが、松代に着いて中を改めると誰も乗っていなかったいうパターンも)。それを聞くなり小幡は、松代までお菊の亡霊が付いてきたに違いないと思ったそうである。
<用語解説>
◆小幡信貞
?-1592?。一族の内紛から上野を追われ、武田信玄に仕える。信玄の上野侵攻の先鋒となって、国峰城主に復帰。武田二十四将の一人とされ、赤備えの騎馬部隊を率いた戦巧者とされる。武田家滅亡後は織田配下から北条配下となる。豊臣秀吉の小田原攻めの時に北条配下として戦うが、敗北。その後は盟友の真田昌幸を頼る。
◆『番町皿屋敷』
元となった『皿屋敷弁疑録』は、宝暦8年(1758年)に馬場文耕が著している。さらにこの話を元に作られた歌舞伎芝居が明和2年(1765年)に江戸で公開されている。宝積寺で盛大な供養がおこなわれた時期と重なっている点は、注目されるべきである。
アクセス:群馬県甘楽郡甘楽町轟