富樫の馬塚

【とがしのうまづか】

加賀・能登・越中の奇談を集めた『三州奇談』の一話に「敷地馬塚」という題の奇怪な話が残されている。

室町時代の頃の話。加賀国の守護として力を持っていた富樫氏であるが、ある時、京の足利将軍の命を受けて富樫三郎成衡という将が西国を転戦し、本国に帰ろうとして大聖寺まで辿り着いた。季節はちょうど12月。あたりはすっかり豪雪で覆われており、成衡の乗った駿馬に追いつけなくなる家来が続出し、気付くと成衡一騎だけが雪の中を走っていた。しかも街道からそれてしまった様子で、どこをどう走っているのかも分からない。やがて日が暮れ、追いつく家来もなく、成衡はついに雪の中での野宿を余儀なくされたのであった。

暖には困らなかったが、如何せん空腹だけは我慢できず成衡が嘆いていると、いきなり馬が雪の中を一散に駆けていく。そしてしばらくすると餅を2枚口に咥えて戻ってきた。成衡は大いに喜び、それを食って何とか飢えをしのぎ、一夜を無事に過ごしたのであった。

翌朝、日が昇ると、遅れを取っていた家来達が成衡を見つけて合流し、そのまま街道を進軍し始めた。しかし菅生石部神社の前まで来た時、いきなり成衡の馬が歩を止めて、全く動こうとしなくなった。最初はなだめすかしていた成衡であったが、馬は一点を見つめたまま動かない。鞭を振るって急き立てても動かないのに業を煮やした成衡は、ついに刀を抜いて脅し始め、果ては馬に斬りつけだし、とうとう殺してしまったのである。

血に染まった馬の死骸を見て冷静になった成衡は、馬が最後まで視線を外さなかった葭屋がふと気に掛かった。中に入ると、血まみれの人が倒れている。しかも大きな獣に食い殺された跡がある。あたりには餅が散乱しており、ようやく成衡は事の真相に行き当たった。

昨夜一時駆け去った馬は、おそらく主人の危難を悟って、食べ物を求めてあたりを巡ったのであろう。そして餅をついている家を見つけて闖入し、その家の主を噛み殺して餅を強奪して戻ってきた。しかし神聖な神社の目の前で行った所業に恐れおののき、その罪を受けんと自ら死を賜ったのであると。成衡は感じ入り、馬を埋めて祠を祀った。これが馬塚となって、今日まで残っている。現在でも、菅生石部神社の鳥居の前にある民家の敷地内に、この奇談を記した案内板と共に祠がある。

<用語解説>
◆『三州奇談』
金沢出身の俳人・堀麦水(1718-1783)の編による。成立は宝暦年間(1751-1764)から安永年間(1771-1781)の期間であるとされる。正編99話、続編50話の奇談が収められている。

◆富樫三郎成衡
富樫氏は加賀の豪族とされ、足利尊氏の京での挙兵に際して味方し、加賀守護職を与えられる。その後一時期を除いて加賀守護を任ぜられるが、長享2年(1488年)の加賀の一向一揆で当主・政親が自害して支配権を失う。(血統も織田信長の北陸侵攻の頃に途絶えたとされる)
ただ富樫三郎成衡という名は富樫氏の主立った者にはないが、架空の人物というよりは、敢えて名を伏せたのではないかと思われる。

◆菅生石部神社
創建は用明天皇元年(585年)、当地で疫病があったため宮中より勘定したものとされる。朝廷をはじめ、歴代の統治者からの崇敬も篤い。加賀国二之宮。旧・国幣小社。

アクセス:石川県加賀市大聖寺天神下町