楊枝薬師堂

【ようじやくしどう】

熊野川河口から約20kmほど上流にあり、周辺には民家もなく、ちょっとしたお堂が一つ建っているだけである。しかし今から約850年前には、この地には七堂八房十二院という規模の大寺である浄薬寺があった。またの名を“頭痛山平癒寺”とされたこの寺院は後白河法皇の発願によって建てられ、現在も残る本尊の薬師如来像は法王自らが彫ったものとされる。

永暦年間(1160~1161年)後白河法皇は日々酷い頭痛に悩んでおり、ある時因幡薬師に参籠したところ、夢に薬師如来が現れ「熊野川のほとりに柳の大木があるので、それを使って京に大寺を建てよ。さらに我が像を彫って祀れば頭痛は治る」とのお告げがあった。早速探させると実際に柳の大木があったため、すぐに伐り倒して京へ運ぼうとした。ところが引き手を増やしても大木は一向に動かない。困り果てていると川から天女(柳の精)が現れて、その神力であっという間に大木を運ばせてしまったのである。そして無事京に届いた大木を棟木として建立されたのが蓮華王院(三十三間堂)であり、この“楊枝”という地名も柳の枝で彫られた仏像を安置したことから付けられているという。

この不思議な由来からさらに派生した伝説が、浄瑠璃の題目ともなった有名な“お柳”の物語である。

熊野の里に住む平太郎は、ある時、柳の大木を伐ろうと騒いでいる侍の一行を見かける。聞くと、木の遙か上方に脚が絡まって動けなくなった鷹を救い出すために伐るという。それだけのために柳を伐るのは忍びないと、平太郎は弓矢を借り、絡まった枝だけを見事に射抜いて鷹を助け出したのである。

その夜、母と暮らす平太郎の家に一人の女が訪ねてきた。“お柳(りゅう)”と名乗る女は一夜の宿を求め来たのだが、平太郎の家から出ることはなく、いつしか平太郎と夫婦の契りを交わした。そして緑丸という名の男児をもうけ、老母共々幸せに暮らしたのである。

数年が経ち、この地に後白河法皇の使者がやって来て、法王の病気平癒のため例の柳の大木を京の大寺建造の棟木にするので伐る、とのお達しがあった。その頃から急にお柳は塞ぎ込むようになり、いよいよ木を伐る当日の明け方、平太郎の枕元に居住まいを正して全てを打ち明けた。
「私は柳の大木の精で、鷹が絡まった時に伐られようとしたところを救ってもらったお礼に人の姿となって妻となり、一子をもうけた。しかしこのたび法王の病気平癒のため伐られることとなり、今日までの命となる。後は子の緑丸と平穏に暮らして欲しい。」
そう言い終えるとお柳の姿はかき消えてしまった。

その日のうちに柳の大木は伐り倒され、京へ運ばれようとしたが、大勢で綱を曳いても微動だにしない。それを聞いた平太郎は緑丸を伴い、事情を話して緑丸一人に綱を曳かせた。そして「お柳の一子、緑丸が綱を曳く。精あれば動いて、法王様のために棟木となってくれ」と念じると、びくともしなかった柳の大木はいとも容易く動き出したのである。この奇瑞を見た人々は、伐った柳の切り株の上に一堂を建て、残った柳の枝で彫られた薬師如来を安置したのである。さらに近年になって、平太郎とお柳の墓も新造され、境内に祀られている。

<用語解説>
◆後白河法皇
1127-1192。第77代天皇。上の伝説では“法王”とされているが、実際には嘉応元年(1169年)に出家しているため、この時期は実際には“上皇”である。

◆後白河院と頭痛平癒
後白河院が酷い頭痛持ちであったことは事実とされており、その平癒を願って仏にすがったという伝説が複数残されている。
・因幡薬師堂で祈願→三十三間堂建立→楊枝薬師堂建立(柳の精)
・熊野で祈願→岩田川で前世の髑髏発見→三十三間堂建立
・新熊野観音寺で祈願→観音降臨・平癒
主な話はこの3つであるが、逸話がさまざまに組み合わさってさらに多くのパターンで語られているようである。
ちなみに岩田川の伝説は、後白河院の前世は蓮華坊という名僧であったが、亡くなった後髑髏が岩田川の底に長年放置され、その目から柳が生え、風が吹くと髑髏が揺れて院の頭痛が起こるとのお告げがあったとされる。

◆蓮華王院(三十三間堂)
長寛2年(1164年)に後白河院の命で平清盛が造営した。毎年1月には「楊枝のお加持」と呼ばれる行事があり、柳を使って浄水を参拝者に注いで病気平癒を祈念する。なお創建当時の建物は約80年後に焼失しており、柳の棟木も現存していない。

◆柳と頭痛
日本では“柳の楊枝を使うと歯痛が治まる”などの俗諺があり、鎮痛などの効果があると伝承されてきた。また古代ギリシアでも柳の樹皮に解熱効果があるとされ、19世紀には柳からサリチル酸を抽出、それを元に製造されたのがアスピリン(アセチルサリチル酸)である。

アクセス:三重県熊野市紀和町楊枝