尾崎神社(里宮)

【おさきじんじゃ(さとみや)】

釜石市にある尾崎神社は4つの宮から成る神社である。釜石の市街地の北東にある高台に里宮が、市街地の南にある尾崎半島の付け根にある平田に本宮がある。そして半島の中ほどに奥宮、さらに半島の先へ向かうと奥の院がある。本宮は尾崎白浜港の街中にあるが、奥宮はそこから山を越えた浜の近くにあり、陸路よりも海を船で回り込んだ方がはるかに行きやすい場所にある。奥の院はそこから半島の尾根辺りを徒歩で移動しなければならないらしい。訪問時が東日本大震災の1年後ということもあって、里宮だけの参拝となった。

尾崎神社の創建は古く、日本武尊が関わっている。伝説によると、この尾崎半島が日本武尊の東征の北限地であるとされ、この半島に上陸した尊はその証として剣を大地に突き刺して南へ戻っていったという。今でもその剣が大地に突き刺さったまま残されており、里の者がこれを祀ったのが尾崎神社の創建であるとされる。それが現在の奥の院である。それ故に尾崎神社の祭神は日本武尊であり、里宮の境内や社殿内にも古代の様式の大きな剣が奉納されている。

そして日本武尊と共に祭神として祀られているのが源頼基である。この人物に関して史実とされているのは、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした戦いの後に閉伊郡・気仙郡を領し、“閉伊”の姓を名乗って閉伊氏の家祖となったことである。しかし伝説では、頼基は保元の乱で伊豆大島へ流罪となった源為朝を父として大島で生まれ、母や7人の家臣と共に島を抜け出して尾崎半島に流れ着いたのだとされる。そのためか、頼基は「死後は、日本武尊が突き刺した宝剣のそばに葬って欲しい」と遺言して葬られたという。奥宮はその時に造営されたものとされる。

なお里宮は尾崎神社の祭礼の折の御旅所が前身であり、元は市街地の浜近くに建てられていたが、昭和8年(1933年)の大津波の後に現在地である高台に移されたとのこと。

<用語解説>
◆閉伊頼元
?-1220頃。伝説では源為朝の三男とされるが、証拠はない。奥州仕置きで下向した源頼朝に拝謁、佐々木氏の猶子となって閉伊郡・気仙郡の地頭に任ぜられる。その後閉伊氏を名乗り、子孫は両郡に土着して勢力を持ったが、戦国時代頃には南部氏によって滅ぼされた。

アクセス:岩手県釜石市浜町