晴明橋公園

【せいめいばしこうえん】

安倍晴明は従四位播磨守まで官位を昇った人物であるが、その前半生、特にその出自は謎が多い。摂津国阿倍野の生まれというのが一応の定説であるが、それ以外にもいくつかの出生の地と言われる場所がある。茨城県筑西市もその中の1つである。

安倍晴明の出自について書かれたものに『簠簋抄(ほきしょう)』という書物がある。そこには以下のような記述がある。

遣唐使として吉備真備が唐へ赴いた時、皇帝より無理難題を出され、命の危険に晒された。その危急を救ったのが、かつて同じく遣唐使として唐に渡り、その才を妬まれて幽閉され死んだ安倍仲麻呂の幽鬼であった。仲麻呂の助けもあって無理難題を解決しその才を認められた真備は、最終的に多くの文物を携えて日本に戻り、朝廷に長く仕えた。

そして80歳となった真備は、かつて唐で命を救ってもらった安倍仲麻呂の子孫に感謝の意を込めて『三国相伝簠簋内伝金烏玉兎集』(『簠簋内伝』)を譲り渡そうと考えた。ところが既に都では子孫が絶えて、常陸国にある真壁の猫島あたりにいると聞き、その地までやって来た。そこで真備は子供たちが遊ぶところに出くわし、その中の一人に天蓋が下りて覆うのを見た。土地の古老に聞いたところ、この子供こそが安倍仲麻呂の子孫であると知り、相伝こそしなかったが書籍を渡した。この子供が後の安倍晴明である。

安倍晴明と吉備真備では約200年ほどの時代のずれがあるのであり得ない話ではあるが、しかし具体的に常陸国猫島の地名が出てくるあたり、安倍晴明と何らかの繋がりの痕跡があったのではないかと考えたくなる。

その痕跡と言えるのが、猫島にある晴明橋の伝説である。

かつて猫島のあたりは湿地帯が多くあり、大雨が降ると田が水没するなどの被害が出た。それを知り心を痛めた安倍晴明は、地形を利用して石橋を築いた。この石橋は堰堤の役目を兼ねており、大雨になっても川の水が溢れ出ないようになった。人々は感謝し、この橋を晴明橋と呼んだという。

現在この石橋はなく、その伝説を元にして橋の一部が再現されたものを置いた公園がある。これが晴明橋公園であり、同時に安倍晴明の出生地と称している。

<用語解説>
◆『簠簋抄』
『三国相伝簠簋内伝金烏玉兎集』は、陰陽道における占いの実用書として書かれたものである。同時に安倍晴明や吉備真備を陰陽道の偉人として崇める意図があったものとも考えられる。『簠簋抄』は室町~江戸時代初期にかけて作られた、『簠簋内伝』をさらに読みやすくしたものであり、晴明の母が狐であるとの伝説を記している。(これによると、母の信太狐は和泉国から常陸国へ遊女に化けて旅をし、暫く滞在していたところを安倍仲麻呂の子孫に見初められて子を成したという設定になっている)

◆吉備真備
695-775。備中国の生まれ。遣唐使留学生として唐に渡り、18年間滞在して多くの学問知識を身につけ帰国。聖武天皇の下で頭角を現すも、藤原仲麻呂の台頭で左遷、さらに再度唐へ派遣される。仲麻呂失脚後、70歳を超えて再び中央政界に復帰し、右大臣にまでなる。

◆『安倍晴明物語』
浅井了意が『簠簋抄』の内容を元に、物語に整合性を付ける形で再編集して作られた。吉備真備が安倍仲麻呂の子孫に『簠簋内伝』を手渡すも、農民となっていたため理解出来ず、何代にもわたって死蔵し続け、安倍晴明の代でようやく日の目を見たことになっていたり、晴明の生国が母のいた和泉国になっている。現在流布している安倍晴明出生の伝説の原型と言える。

◆安倍晴明と平将門
常陸国が安倍晴明(921年生)の出生地という伝承から、平将門(940年没)の子であるとの説がある。具体的には、将門の次男・将国がそれに該当するとされる。将国は父亡き後、常陸国信田(信太)郡浮島に落ち延び、2代目新皇を名乗ったとされるが、乱平定後の足取りが掴めていない。

アクセス:茨城県筑西市猫島