水門龍神社

【すいもんりゅうじんじゃ】

能代の町の鎮守とされる八幡神社の敷地内にある池の中ほどに境内社がある。水門龍神社。一名、住吉龍神社とも呼ばれるこの神社は、明治元年(1868年)に能代に入った奥羽鎮撫副総督の沢為量以下、参謀・大山格之助、隊長・桂太郎が、秋田藩の多賀谷家知らと密議をおこなった史跡としても有名である。しかしこの神社の創建由来には、あやしい伝説が残されている。

能代は日本海側の交易港として江戸時代に大いに栄えた。交易のための商家は当然であるが、船乗りのための施設も栄えた。その中には遊郭もあった。

享保年間(1716~1736年)の頃の話。播磨国から1隻の船が能代にやって来た。船は荷物の積み卸しなどのため、1ヶ月近くは港に停泊する。その間に、船乗りの一人がとある遊郭の女と懇ろになった。特に女の方が男にぞっこんとなってしまったから、始末が悪くなってしまった。

船乗り達は当然の如く、荷を積めば郷里の港へ戻る。男も出航の日を待つばかりとなったが、女の方がいきなり自分も播磨国へ連れて行って欲しいと言い出した。ところが男には郷里に妻があったらしい。あまりに女がしつこく言い寄ってきたため、やむなく「船に乗せてやる」と女を誘い出して小舟に乗せて沖に出ると、その場で首を絞めて殺してしまったのである。そして重しを付けて港近くの米代川の河口辺りに投げ捨ててしまったのである。(一説では、男が妻子持ちであると告げたために、女が逆上して、そのまま河口に身投げして死んでしまったとも)

素知らぬ顔で男は他の者と一緒に船に乗り込んで、能代の港を出ようとしたその時、いきなり大風が吹き荒れだした。帆を揚げたばかりの船はたちまち風に煽られて、港に引き返そうとしたが河口辺りで転覆し、結局乗り合わせた船頭は全員溺れ死んでしまった。それ以来、能代の港では播磨国の船が来ると必ず大荒れになるため、これは遊女の祟りであろうと、元文3年(1738年)に河口付近に龍神を勧請して社を建てた。それが水門龍神社の始まりであるとされている。その後嵐でたびたび社が流失するため、現在地に移転し、今に至っている。

この神社が出来てからは遊女の祟りはおさまったと言われるが、時折港で変事が起こると播磨国の船があるためだという話はその後も残ったとされる。

<用語解説>
◆八幡神社
“能代鎮守”を称す。創建は斉明天皇4年(659年)。阿倍比羅夫が蝦夷征伐の際に海岸沿いに建立したとされる。その後、米代川の流れの変化などで移転、元禄9年(1696年)に現在地に鎮座。秋田藩佐竹氏の崇敬を受ける。

アクセス:秋田県能代市柳町