宴の松原

【えんのまつばら】

『大鏡』に次のような話が残されている。

5月のある雨の夜。花山天皇が戯れに肝試しをしようと言い出した。そして藤原3兄弟にそれぞれ大内裏の各所へ一人で行くように命じた。長男の道隆は途中の宴の松原で得体の知れないものの声を聞いて逃げ帰り、三男の道兼は建物の軒ほどの大きさの人影を覚えて退散した。ところが五男の道長だけは悠然と戻ってきて、証拠の品まで差し出した。

宴の松原は怪しいものがいるという噂で専らの場所であったことが分かる逸話であるが、そもそもその場所自体が不可解なものと言える。大内裏の一画、内裏(天皇の住まい)の西側に位置しており、南北430m、東西250mの広さを持つが、実は空き地である。なぜそのような場所に空き地があるかの真相は不明で、その名の如く宴会などを催すために設けられた場所であるとか、あるいはちょうど内裏と対称の位置にあるため“内裏の建替時のための用地”であるとも考えられている。いずれにせよ大都会のエアポケットのような空間であったことは間違いない。

実際、この場所では恐ろしい出来事が起こっている。『日本三代実録』によると、仁和3年(887年)8月17日の深夜10時頃のこと。宴の松原を内裏に向かって東へ歩いていた3人の若い女があった。すると松の木の下に一人の容姿端麗な男がいて、3人のうちの一人を手招きして呼ぶと、陰に隠れて何か話をし出した。残った2人は待ったが、話し声も聞こえないので不審に思って見に行くと、男女の姿はなく、ただ女の手足だけが散らばっていて、首や胴体はそこにはなかった。右衛門府の者が駆けつけたが、結局死体は見当たらず、これは鬼の仕業であろうということになった。正史として編纂された歴史書に詳細が書かれており、まさに“実話”と言うべき内容である。

大内裏はその後縮小・移転して現在の京都御所となっており、宴の松原一帯も民家が建ち並ぶ場所となっている。現在、千本出水通を西に入ったところに宴の松原の石碑が建っており、公的な案内板も設置されている。ただこの石碑は、この碑の立つ場所に店を構える石材店が個人的に建てたことから始まるものであり、実際には宴の松原の東端辺りの地点であると言われている。そしてこの石碑の建つ周辺は、江戸時代には“出水七不思議”と呼ばれる不思議なものが点在する場所として知られるようになった。その点では、怪異の多重構造化されたポイントとして、地霊的に非常に希な存在であると言えるかもしれない。

<用語解説>
◆『大鏡』
平安時代末期に成立した歴史書。藤原摂関家一族、特に藤原道長の栄華に言及している。

◆花山天皇
968-1008。第65代天皇。在位は984-986年の約2年間であり、5月となると985年または986年に限定される。

◆藤原道隆・道兼・道長
藤原兼家の子息で、同腹(正室)の兄弟である。その後3人とも大臣や摂関を務める。

◆『日本三代実録』
『日本書紀』から始まる六国史の最後の書として、延喜元年(901年)に成立。清和・陽成・光孝天皇の3代の治政(858~887年)の30年間の宮中での出来事を中心に記録している。上の事件の発生は、この歴史書の最後の月にあたる。菅原道真らが編纂している。

◆出水七不思議
出水六軒町通から七本松通までの周辺にある七不思議。光清寺の浮かれ猫絵馬、華光寺の時雨松、観音寺の百叩きの門、地福寺の日限薬師、五劫院の寝釈迦、極楽寺の二つ潜り戸、善福寺の本堂。

アクセス:京都市上京区千本通出水西入ル七番町