頼政塚

【よりまさづか】

鵺退治で有名な源三位頼政であるが、いわゆる“正史”の中でも彼の勇名は刻まれている。

1180年4月、有名な以仁王の平家打倒の令旨が出された。それに一番最初に応えたのが頼政である。だが翌月、奈良へ逃れようとする以仁王と共に、頼政は宇治で平家軍に追いつかれる。そして宇治川をはさんだ戦いが繰り広げられることになる。結局、多勢に無勢のまま頼政の軍勢は押し切られ、頼政は宇治平等院で自刃して果てることになる。

この頼政の遺体のその後については、諸説ある。首実検をおこなったという書物もあれば、家来が首を隠してしまったという話も残っている。そのような中で、頼政の首塚と伝えられる塚がある。しかも宇治からかなり離れた亀岡市内にである。

国道9号線を走っていると【頼政塚】という名の交差点に出くわす。ここを折れると小高い丘の上に頼政塚はある。伝承として、源頼政の家来がここまで首を運び埋めたと言われている。この地のすぐそばにある“矢田”という土地を、頼政は鵺退治をした時の褒美として拝領しているのである。多分頼政にとってこの地が自刃の場所から最も近い私有地だったのだろう。

そして無念の死を遂げた者の【首塚】と言われるだけに、この塚に無礼なことをすると祟りがあるという。実際訪れた日にも、設備の何かを破壊した者への警告文が貼られ“手足が麻痺し、やがて命に関わることになる。過去にも命を落とした者がある”と書かれてあった。真偽はともあれ、そのような内容の文が堂々と出されていることに、この塚への畏敬の念が並々ならぬことがうかがわれた。

<用語解説>
◆以仁王
1151-1180。後白河天皇の第三皇子。平氏政権下において皇位継承争いに敗れ(弟である高倉天皇が譲位される)、親王宣下もおこなわれなかった。1180年に平家打倒の令旨を全国の源氏に送り反旗を翻すが、事前に露見。園城寺に逃げ込み、さらに奈良へ落ち延びる際に光明山鳥居で戦死。

アクセス:京都府亀岡市西つつじヶ丘町