橋姫神社
【はしひめじんじゃ】
橋姫神社の祭神は“宇治の橋姫”である。だが橋姫の伝承を語ろうとする時、あまりにも違いすぎる性格故に困惑する。
最も有名な伝説と言えば、【丑の刻参り】の原型とされるもの、自らの意志によって鬼女と化して人々を恐怖に陥れたという伝承がある。ところが全く正反対の橋姫も存在し、夫を龍神に奪われるが、それでも夫を思い続ける“橋姫”の伝承も残っている。
橋姫神社は宇治橋西詰から歩いて1分程度の場所にある。御利益はと言えば、やはり最初に取り上げた伝説のインパクトがあまりにも強いせいか、やはり“縁切り”である(実際、婚礼の行列はこの神社や宇治橋を通るのを避けていたという慣習がある)。
ところが。この橋姫神社の発祥を考えると、また別の姿が顕わになる。
平成に建て替えられた宇治橋であるが、その途中に一部分出っ張った場所がある。この場所は【三の間】と呼ばれ、かつて豊臣秀吉がここから茶の湯の水を汲んだと言われている(今でも行事として行われている)。実はこの出っ張った部分こそが、橋姫神社が最初にあった場所なのである。つまり橋姫は宇治橋を守護する神なのである。時代背景を考えると、オリジナルの“橋姫”はこの宇治橋の守護神である可能性が高いだろう。
<用語解説>
◆『平家物語』による橋姫
ある公家の娘が嫉妬のあまり貴船神社へ詣でて鬼になることを願った。そして7日目に貴船の神託があり、姿を変えて宇治川 に21日間浸かれば鬼と化すという。そこで女は髪を松脂で固めて5つの角を作り、顔には朱、身体に丹を塗り、頭に鉄輪をかぶってその3本の足に松明をつけ、さらに両端に火をつけた松明を口にくわえて京の南へと走り、宇治川に浸かって生きながら鬼となったという。そして念願通り、人々を取り殺したという。さらに室町期に後日談が作られ、この橋姫は安倍晴明によって封じ込められ、源頼光四天王の渡辺綱らによって退治された。そして祀ってくれるならば京を守護すると言って宇治川に身を投げて龍神となったという。このあたりの伝承や創作から謡曲『鉄輪』が作られ、丑の刻参りに繋がっていったと見るべきである。
◆『山城国風土記 逸文』による橋姫
つわりがひどい橋姫は、夫に海草を採ってきて欲しいと頼む。そして夫が海辺で笛を吹いていると、美しい龍神が現れて婿に迎えてしまう。そして3年経ってようやく橋姫は夫の所在を尋ね当てる。夫は竜宮の火で作られたものを食べることを嫌い、老女の家に食事に来るという。そこで二人は再会するが、泣く泣く別れることになる。その後、夫は橋姫の元に戻ってきた。
このときに夫が詠んだとされる歌が、詠み人知らずとして『古今和歌集』に収められている。「さむしろに衣かたしき今宵もや 我をまつらん宇治の橋姫」
この悲劇のヒロインの流れを汲むのが『源氏物語』第四十五帖【橋姫】に登場する大君と中の君であると推察できるだろう。
◆宇治橋
大化2年(646年)に架けられた日本最古の橋。奈良元興寺の僧・道登が作ったとされる(宇治橋断碑では道昭によるとなっている)。その際に上流にあった瀬織津媛を祀り、それを橋姫神社としている。
◆道登・道昭
道登は、大化元年に僧旻らと共に十師(国家政策としての仏教推進の最高指導者)に任ぜられる。また大化から白雉への改元にも進言をおこなっている。
道昭は、宇治橋架橋の後に唐に渡り、玄奘三蔵の直弟子となる。帰国後に玄奘の教えである法相宗を開く。弟子に行基など。(629-700)
アクセス:京都府宇治市宇治蓮華