神泉苑

【しんせんえん】

堀川御池を西へ歩いて数分。ちょうど二条城の南側に神泉苑がある。元々はかなり広大な土地であり(二条城の南の通りを歩くと、かつての神泉苑の規模を示す石碑がある)、禁苑として天皇や貴族が足を運んだ場所、宗教的行事が行われた場所でもある。

ここの池は平安京造営の時からあるもので、1200年前から唯一残る平安京の遺跡である。それと同時に、この池は数々の伝承・伝説・記録に彩られた場所なのである。有名なところでは、小野小町がここで雨乞いをしたとか、日本初の御霊会がとりおこなわれたとか、醍醐天皇が鷺に官位を与えたとか、鵜が池から太刀をくわえて出てきて白河天皇に差し出したとか、源義経が静御前を見初めたとか、とにかく話題には事欠かない。

しかし、最大の逸話といえば、空海と守敏の雨乞い祈祷にまつわる話であろう。

弘仁15年(824年)、京都の町は干魃に苦しめられていた。そこで勅命が下り、空海と守敏が祈雨の修法を行うこととなる。最初の守敏は何とか雨を降らすことができた。そして空海の番になると雨が降らない。そこで空海が探りを入れると、守敏が龍神を封じ込めているではないか。ならばと空海は善女龍王を天竺より勧請し、見事に大量の雨を降らせたのである。

神泉苑の池にある中島には、空海が勧請した善女龍王社がある。一見、これが神泉苑の本殿であるように思うが、実は神泉苑は真言宗の寺院である。しかしながら池の周辺には弁天堂もあって、やはり水の神様がここの主役と言うべきかもしれない。

善女龍王社の前に小さな祠が置かれている。この何の変哲もない祠であるが、何と日本でここだけという【徳歳神】が祀られているのである。この祠はその年の恵方(幸運の方角)へ向かうように、毎年台座の上で廻されるのである。実際に台座を見ると動かされた跡が残っており、また台座の下には四方から拝めるような工夫がなされていた。それにしても毎年位置が移動する祠というのは、多分ここだけなのではなかろうか。

<用語解説>
◆小野小町の伝説
『雨乞小町』という謡曲(現存せず)によると、ある大干魃の年、高僧が祈祷をおこなっても効果がなく、帝の勅命で小野小町が「ことわりや日の本なれば照りもせめ  さりとてはまた天が下かは」との雨乞いの歌を詠んだところ、大雨が降ったという。

◆御霊会の伝説
非業の死を遂げた者(特に政争で敗れ無念を残して死んだ者)が祟り、天変地異を引き起こすと考えるのが御霊信仰。それを防ぐためにおこなわれた儀式が御霊会。貞観5年(863年)5月に神泉苑で執り行われたのが嚆矢とされる。さらに貞観11年(869年)の御霊会では66本(日本の国の数)の鉾を立てて執り行った。これが後の祇園祭となっていく。

◆醍醐天皇の伝説
神泉苑の池に一羽の鷺があるのを見た天皇が、それを捕らえるように命じた。命ぜられた役人が鷺に向かって「勅命である」と言うと、鷺はおとなしく捕らえられた。天皇はそれを聞き、神妙であると、この鷺に五位の位を授けた。これが“ゴイサギ”の名の由来となった。

◆白河上皇の伝説
上皇が神泉苑で宴を開いた際に鵜漁を見学した。その時に鵜が池の中から太刀を拾い上げた。上皇はそれを霊剣として“鵜丸”という名を付けて秘蔵した。この剣は後に崇徳上皇から源為義に下賜された。

◆静御前の伝説
寿永元年(1182年)後白河上皇が雨乞いのために、神泉苑で白拍子100人を集めて舞を踊らせた。99人まで舞うものの雨は降らず、最後の静御前が舞うと黒雲が湧き上がり雨が降ったという。この時源義経もその場におり、静御前を見初めたと言われる。

◆守敏
生没年不明。823年に嵯峨天皇より西寺を与えられる(同じ時に東寺を与えられたのが空海)。空海とは折り合いが悪く、この雨乞いで敗れた後に、空海の命を狙う。

◆善女龍王
八大龍王の一柱である娑羯羅龍王の第三王女。空海によって“清瀧権現”と名付けられ、密教の守護神として祀られている。

アクセス:京都市中京区御池通神泉苑町東入ル門前町