晴明神社

【せいめいじんじゃ】

この神社が創建されたのは寛弘4年(1007年)、晴明の没後2年、一条天皇の勅命であったと伝えられており、安倍晴明が生前にいかに特殊な能力を発揮していたかが察せられる。建てられたのは晴明旧宅地であるとされる(その後の研究によって実際の屋敷は、神社の南東に当たる京都ブライトンホテル駐車場付近であったとされている)。この地は当時の御所の鬼門に当たる位置であり、当然のことながら御所を守護する意味合いが強いと考えられている。いずれにせよ、この神社は 魔界のものから京都(朝廷)を防衛するためのシステムとして建てられたものと見て差し支えないと思う。

この神社の祭神はいうまでもなく、安倍晴明である。そして彼以外の祭神は祀られていない。さらに末社は稲荷神社だけという、非常にシンプルな神社である。そしてこの神社の社紋は、あの有名な【五芒星】である。この紋は神社の至る所にあり、社殿にも燦然と輝いている。この【五芒星】であるが、晴明の名にちなみ【晴明桔梗】とか【セーマン】という名で呼ばれてもいる。まさに陰陽道を象徴する紋章である。

また晴明神社の中に【晴明井戸】と呼ばれる井戸がある。この井戸から汲み出される水は霊験あらたかであり、いかなる病気にも効くということで“晴明水”と呼ばれている。この水で千利休が茶を点てたことがあるとも伝えられている。

安倍晴明に関する数々の超能力は、後世の説話集を中心に語られている。果たしてどこまでが真実であるかはわからないが、簡単に列挙してみる。
★十歳の頃、師である賀茂忠行のお供をしていた時、前方に鬼の群れがあるのに気づき、危機を逃れた。忠行はその天賦の才能を見抜き、陰陽道の全てを教授した。(『今昔物語』より)
★花山天皇の電撃的な退位の際、天皇が晴明の屋敷の前を通りがかると「帝が退位する兆しがあるので、式神に様子を見させよ」との晴明の声がして、誰もいないのに屋敷の門が開いた。(『大鏡』より)
★晴明は十二神将を式神として使役していたのだが、妻がその容貌を恐れたために、屋敷のそばの一条戻り橋の下にそれらを隠し置き、必要あればそれらを呼び出していた。(『今昔物語』より)
★蔵人の少将が烏の糞をかけられるのを見た晴明は、それが呪詛であることを見抜き、呪詛返しを行った。すると翌日に呪詛を行った陰陽師が死んだという知らせがあった。(『宇治拾遺物語』より)
★藤原道長に対する呪詛が門に仕掛けられているのを見抜き、さらに仕掛けた者を探すべく紙を白鷺に変えて飛ばし、道摩法師を捕らえた。(『宇治拾遺物語』『十訓抄』より)
★播磨からやって来た陰陽師が術を挑んだが、その素性を見抜き、さらに彼の式神を隠すなどして散々な目に遭わして、降参させてしまった。(『今昔物語』より)
★仁和寺で、他の公卿から陰陽道の術を見せて欲しいとせがまれ、近くにいた蛙を手を触れることなく潰してしまった。(『今昔物語』より)

<用語解説>
◆安倍晴明
921-1005。賀茂忠行に付き陰陽道を学ぶ。その才能によって天文博士となり、占いの術者として歴代の天皇に仕える。また藤原道長からも信任が厚かったとされる。最終的に従四位播磨守の地位を得る(天文博士は正七位の官位。相当な官位に就いている)。伝承は数知れず、その出自から伝説に彩られている。

◆晴明神社の稲荷社
安倍晴明の母親は、和泉の葛葉姫という狐であるという伝承がある。晴明神社にも稲荷社があり、この故事に倣って勧請されたようにも見えるが、実際には、明治維新の頃に“人神である”ことで存続が危ぶまれたために、近隣の稲荷社を敷地に勧請したとのこと。

◆五芒星
5本の等しい直線でできた星形。中央に正五角形、その正五角形の各辺を一辺とする、合同な二等辺三角形でできている。この星形の5つの頂点が陰陽道の根本的思想である“天地五行(木・火・土・金・水)”を具象化したものであると言われ、晴明自身が作り出したとされる。ちなみに大日本帝国軍の軍服にはこの【五芒星】が縫いつけられている。魔除け(弾除け)の意味が込められているという。

アクセス:京都市上京区堀川通一条上ル晴明町