姥ヶ池跡

【うばがいけあと】

浅草寺の二天門から東へまっすぐ。花川戸公園内に石碑と祠、そしてわずかばかりの人工池がある。ここに明治24年(1891年)に埋め立てられるまで、姥ヶ池というかなり大きな池があった。池は隅田川まで通じていたと言われているので、相当な面積であったと推測される。

浅草寺が創建された頃、この周辺一帯は浅茅が原と呼ばれ、奥州へ向かう街道ではあるものの、見渡すばかりの荒れ地であったという。その荒野にあばら屋が一軒、老婆とその娘が暮らしていた。この辺りで日が暮れてしまうと、旅人はこの一軒家に宿を借りるしかなく、二人もそれを承知して旅人を泊めていた。しかし親切な老婆の正体は、旅人が石枕に頭を置いて眠りに就くと、吊した大石を落として頭を叩き潰して殺し、遺骸は近くの池に捨てて金品を奪ってしまうという鬼婆だったのである。そしてその所業を浅ましく思う娘は何度も諫めるが、老婆は聞く耳を持たなかった。

あと一人で千人の命を奪うところまできたある夕刻、一人の稚児が宿を請うた。老婆はいつものように床に案内すると、稚児が寝てしまうのを待った。そして頃合いを見計らって、いつものように大石を頭めがけて落とした。そして遺骸を改めたところで、異変に気付いた。いつの間にか稚児は女の身体にすり替わっていた。しかもそれは我が娘であった。さすがの冷酷無比の鬼婆も事の次第に茫然自失するしかなかった。

そこに全てを悟ったかのように稚児が姿を見せた。その正体は浅草寺の観音菩薩。老婆の所業を哀れんで、稚児に姿を変えて正道に立ち戻らせようとしたのである。

その後の老婆であるが、娘を自らの手に掛けた報いと己の所業を悔いて池に身を投げたとも、観音菩薩の法力によって龍となって娘と共に池に沈んだとも、仏門に入って手を掛けた者の菩提を弔ったともいわれる。いずれにせよ、この“浅茅が原の鬼婆”にまつわる池として姥ヶ池と呼ばれるようになったという。

<用語解説>
◆「一ツ家伝説」
この浅茅が原の鬼婆の伝説は「一ツ家伝説」と言われ、旅人を泊まらせては殺害して金品を奪う悪逆を繰り返す老婆が、法力によって改心させられるというパターンの話である。現在この伝承の最も有名なものとしては福島県の「安達ヶ原の鬼婆」があるが、こちらも法力によって成仏するという展開となっている。(この安達ヶ原の伝説も、実はこの武蔵国の“浅茅が原”の伝説の亜種であるという説もある)

◆浅草寺
推古天皇36年(628年)に、檜前浜成・竹成が拾った観音像を安置したのが始まりとされる。現在の伽藍の規模の寺院となるのは、平安時代初期のこととされる。浅茅が原の鬼婆の伝説では、浅草寺の観音信仰が色濃く反映されており、安達ヶ原の伝説とは異なる部分となっている。おそらく浅草寺の観音菩薩が登場する部分は、後世に追加されたと考えられる。

◆石枕
浅草寺の子院である妙音院に、この伝説に登場する石枕が所蔵されている。ただし非公開である。

アクセス:東京都台東区花川戸