泉岳寺 赤穂義士の墓

【せんがくじ あこうぎしのはか】

曹洞宗の江戸三ヶ寺として、江戸にあった曹洞宗寺院を司った名刹である。

慶長17年(1612年)、徳川家康が、今川義元の孫にあたる門庵宗関を招いて桜田門あたり(現在の警視庁付近)に建立したのが始まりである。その後寛永18年(1641年)に起こった大火によって焼失し、現在の高輪の地に移転となる。ところが再建に手間取ったため、将軍徳川家光の命によって、5つの大名家が普請を手伝った。そのうちの一つが広島の浅野家であった。そこから泉岳寺と浅野家との繋がりが始まる。

元禄14年(1701年)、江戸城内において赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が刃傷を起こすと、即日切腹が命ぜられ、その遺体は泉岳寺に葬られた。そして翌年、内匠頭の仇を討つべく大石内蔵助以下の四十七士は、両国松坂町の吉良上野介邸を急襲してその首級を挙げ、泉岳寺にある主君の墓前にそれを供えたのである。彼らの行動は義挙と称えられたが、最終的には切腹という形で決着した。世に言う“赤穂浪士の討ち入り”である。

4ヶ所の大名屋敷に預けられ切腹した義士の遺体は泉岳寺に葬られている(間新六のみ遺体が引き取られて築地本願寺に葬られているため、供養塔となる。また討ち入りに参加しながら離脱した寺坂吉右衛門も供養塔となる)。さらに義盟に加わりながら忠孝の板挟みとなって自害した萱野三平の供養塔もあり、全部で48の墓となっている。

また赤穂義士ゆかりのものとして、吉良上野介の首級を洗ったとされる井戸、大石主税が切腹した松平家の庭にあった梅の木、堀部安兵衛の妻と称した(実際のところは別人とされる)妙海尼ゆかりの梅の木、さらに浅野内匠頭が切腹の際に飛び散った血が掛かったとされる梅の木と岩も同地にある。

<用語解説>
◆寺坂吉右衛門
討ち入りに加わりながら、泉岳寺へ行く途中で謎の離脱をしている。ただ一人だけ士分ではなく足軽という身分であったために体面を憚ったとも、内匠頭の縁者へ討ち入りの報告させるために離脱させたとも言われている。その後も長らく生き残っており、最後は旗本の山内家へ出仕したとされ、墓は東京の曹渓寺にある。ただし異説が多くあり、全国各地に“墓”と称するものがある。

◆萱野三平
自身は浅野家家臣であったが、実家は旗本の大島家の家老職。大島家は吉良家と関係の深い家柄であったため、父より早く他家へ出仕するよう迫られる。そのために大石内蔵助に遺書をしたため、主君の祥月命日に自害する。歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』では早野勘平の名で、悲劇的な役回りとなっている。

アクセス:東京都港区高輪