豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地

【とよとみひでより・よどどのらじじんのち】

前年の大坂冬の陣の講和で堀が埋められてしまった大阪城は、野戦での奮戦も虚しく、慶長20年(1615年)5月8日に落城する。

前日の7日に大勢が決し、大阪城内は内応者による放火が始まり、火事場泥棒の如く裏切る浪人も多数現れた。城主である豊臣秀頼をはじめ、生母の淀殿、恩顧の武将や女房など約30名は難を逃れ、徳川家康の孫である妻の千姫による助命嘆願が聞き届けられるのを待つことになる。潜んだ場所は、天守閣の北にあたる山里曲輪にある隅矢倉であったと伝えられる。しかし助命は叶わず、隅矢倉に立て籠もった者は火を放ってことごとく自害して果てたのであった。ただ全てが灰燼に帰したため、遺体はあったものの誰であるかは分からない状態であったとされる。秀頼については、吉光の短刀のそばに首のない遺体があり、短刀が秀吉から秀頼に与えられたものであったために、それが本人であると確認されたという。

平成9年(1997年)、大阪市は大阪城公園内にある山里丸の一角に秀頼・淀殿らの自刃の跡を示す碑を建てている。公園北側にある極楽橋から山里丸を通って天守閣へ至る道から外れたところに建てられた碑は、整備されているものの、訪れる人はあまりない様子であった。

<用語解説>
◆豊臣秀頼
1593-1615。豊臣秀吉の嫡男。二条城で対面した際にその威風堂々たる容姿を見て怖れた徳川家康が、豊臣家滅亡を画策するようになったと言われる。大坂夏の陣で自害したとされるが、薩摩に逃れたとする生存説も根強く残る。
また最近発見された、東インド会社職員の書簡史料では、大阪落城の際に裏切ろうとして城に火をつけた数名の大名を、秀頼自身が城壁から突き落としたという報告がなされている。

◆淀殿
1569?-1615。浅井長政とお市の方(織田信長の妹)の間に生まれた長女。豊臣秀吉の側室となり、鶴松(2才で夭折)、秀頼を生む。

◆秀頼の首級
焼け跡から発見された“首のない遺体”が秀頼であるとされたが、昭和55年(1980年)、京橋口の二の丸跡から1つの頭蓋骨が発見される。1m四方に奇麗に掘られた穴に納められ、高価な焼き物などの副葬品も一緒に発見された状態であったため、身分の高い人物の遺骨であると推定された。しかも歯の状態から、20代の男性で栄養状態も良好な人物であると判明する。さらにそのそばから、当時としては大型の馬が丁重に葬られていた。最終的に、この頭骨は秀頼のものとされ、京都の清涼寺に葬られ、首塚が建てられている。

アクセス:大阪府大阪市中央区大阪城