治水神社

【ちすいじんじゃ】

治水神社は昭和13年(1938年)に地元住民の要望によって創建された神社である。主祭神は薩摩藩家老の平田靱負正輔で、木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の大河が横並びに接する場所に建つ。

薩摩藩がこの地に足跡を残すことになったのは、宝暦4年(1754年)から約1年半掛けておこなわれた宝暦治水の御手伝普請に駆り出されたためである。この宝暦治水は江戸時代の治水事業の中でも屈指の大事業とされた。当時の木曽三川は濃尾平野で合流、至る場所で流れが合わさって一旦大水になると平野全体が冠水して甚大な被害が出ていた。これを解消するため、3つの川をそれぞれ合流させないよう分けるのが事業の概要であった。しかし長年にわたる土砂の堆積、3つの川の高低差という地形的問題から、莫大な人出と費用の掛かる難工事となった。

この事業に薩摩藩が指名されたのは、雄藩に大事業を命じて多額の金銭を負担させてその力を削ぐという幕府の方針からであった。実際、薩摩藩はこの事業のために借財までして約40万両(現在の250億~500億円)を調達した。そのため一時は幕府の命を拒否して一戦交えようとの意見が藩内で真剣に討議されたとも言われる。その過激な論調を制して、自ら総奉行となったのが平田靱負である。

幕府は薩摩藩の負担を増大させるため、薩摩の工事には大工などの工事の専門家の雇用を認めず、また幕府が持つ河川に関する情報を殆ど伝えず(幕府側の普請奉行には、代々木曽三川の水行奉行を務める高木三家(西家・北家・東家)が担当している)、さらには日々の食事まで差をつけられた。そのような中で派遣された薩摩藩士の犠牲も多く、1年半の事業で84名の殉職者を出した。そのうち病死は32名、残りは自害であった。自害した者の多くは工期の遅れの責によるものとされる。

宝暦5年(1755年)4月。2次にわたる工事を終え、幕府による検分が約1ヶ月以上おこなわれたが、工事の出来映えに文句の付けようがなく、賛辞のみであったという。そして5月24日に国許に完了の書面を送った翌25日早朝、平田靱負は宿舎で急死。公式には吐血後に病死となっているが、多くの藩士の犠牲と多額借財の責を負っての自害であると言われ続けている。

その後、この事業における薩摩藩の快挙については多く語られることはなかったが、明治20年頃より三重県多度(海津市とは木曽三川を挟んで対岸にある)の西田喜兵衛が「薩摩義士」として顕彰を広く呼びかけた。その活動は、明治33年(1900年)に始まった木曽三川分流工事竣工式の際、総理大臣列席の中で薩摩義士の招魂祭を執りおこなうまでに至った。

治水神社では平田靱負始め、宝暦治水で亡くなった85名の薩摩藩士を祀っており、毎月25日に月次祭をおこない、薩摩義士顕彰を推進している。

<用語解説>
◆幕府側の状況
宝暦の治水は薩摩藩が主力ではあるものの、あくまで幕府の事業であった。責任者は勘定奉行だが、主に動いたのは「高木三家」と呼ばれる直参旗本・高木家の3つの家であった。一之手・二之手の工事を任された西高木家では、従来の家臣だけでは普請は賄えないと判断し、下命される直前に治水事業に長けた内藤十左衛門を雇い入れている。二之手の責任者となった十左衛門であるが、工事開始直後に工事を手伝う庄屋と対立、その累が主家となった高木家に及ぶことを察して自害している。幕府側で責を負って自害したのは、この内藤十左衛門の他には、小人目付の竹中伝六がおり、都合2名が記録されている。

◆宝暦治水の人柱
この治水事業で唯一人柱を志願したのが桝屋伊兵衛である。伊兵衛は高木三家の領地である多良出身で、東高木家の江戸屋敷近くに居を構えていたが、この治水事業で東高木家当主と共に帰郷していた。三之手を任された東高木家であるが、最大の難所の大榑川洗堰での工事が数度に渡り失敗、薩摩側の責任者も自害していた。伊兵衛はこれを水神の祟りであると主張し、それを鎮めるために9月22日に自ら濁流に飛び込んで人柱となった。その後伊兵衛の墓が輪之内町の円楽寺に建てられたが、治水事業完成の翌日が命日として刻まれている。

アクセス:岐阜県海津市油島

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