深味八幡宮
【ふかみはちまんぐう】
関ヶ原の戦いで敗れた西軍の主立った将は処刑や遠島あるいは減封と厳しい処分を受けているが、一族の中には詮議の目をかいくぐって生き延びた者をいくらか存在する。西軍の実質的主将である石田三成の子息たちも、その数奇な運命の中で生き延びた者たちである。
長男の重家は、関ヶ原の戦い当日、大阪城内にいたが、敗報を聞くと城を脱出して京都の妙心寺へ駆け込んで出家する。まだ元服するかしないかという年齢であったため、寺を介して助命され、以後100歳頃まで余生を過ごした。
次男の重成も、当日豊臣秀頼の小姓として大阪城に在城していたが、同輩であった津軽信建の手引きによって城を脱出すると、そのまま信建の父である津軽為信の領地である津軽へと逃避行したのである(おそらく大阪から京を経由して、交易船の出る若狭小浜へ落ち延びたものと推測される)。記録によると、男18名女3名で津軽へ逃れると、領内の深味という土地に潜伏。名も杉山源吾と改めてこの地を開墾して土着したとされる。
津軽家と石田三成の遺児との結びつきはさらに続き、津軽為信の後を継いだ信枚(信建の弟)は、高台院(秀吉の妻)の養女となっていた辰姫を正室に迎えるが、辰姫の実父は石田三成、重成の同母妹であった。さらに辰姫が信枚の嫡子の信義を生むに至り、重成は杉山源吾の名乗りで津軽家に出仕するようになったらしい。そして寛永10年(1633年)、重成の長男・吉成が津軽信義に召し出され、正式に津軽家の家臣となって深味の地を領有することとなる。吉成は前藩主・信枚の娘を妻とし、藩主・信義と二重の縁戚を結ぶことにより、家老職にまで登り詰める。
寛文9年(1669年)、蝦夷地で起こったシャクシャインの乱を鎮めるべく、幕府の要請を受けた津軽藩は、杉山吉成を侍大将とする700名の兵を蝦夷地に送り、見事にその大役を果たした。この蝦夷出征の際に、吉成は所領地に武運長久を祈願して八幡社を建立している。これが現在の深味八幡宮である。御神体は3寸ほどの金無垢の像で、豊臣秀吉の守り神であるとされ、おそらく父の重成が大阪脱出の際に持ち出した宝物の1つであろう。他にも祖父に当たる石田三成の陣羽織などを奉納したとされる。その後も杉山家は津軽藩の重役として代々続いていくが、その出自については不詳として、決して多くを語ることはなかったと言われる。
<用語解説>
◆津軽信建
1574-1607。津軽為信の嫡男。烏帽子親は石田三成。父の命を受けて豊臣秀頼の小姓となり、関ヶ原の戦い時には西軍に属す(父・為信は東軍)。戦いの後も津軽に戻らず、京や大阪で主に幕府との外交を担っていたとされる。父よりも2ヶ月ほど早く亡くなったため、藩主にはなっていない。
◆辰姫
石田三成の三女。秀吉死去後に、高台院の養女となる。慶長15年(1610年)頃、津軽藩主の津軽信枚の正室となる。しかし3年後に徳川家康の養女を信枚が娶ることとなり、辰姫は側室扱いとなり、津軽藩の飛び地領地である上野国大舘に移り住む。しかしその後も度々信枚は大舘を訪れ、元和5年(1619年)に長男の信義を生んでいる。辰姫は数年後に亡くなるが、信義は信枚のたっての希望で藩を継ぐこととなった。
◆シャクシャインの乱
アイヌの部族間の争いから始まり、そこに松前藩が陰謀を仕掛けたとの誤報が伝わったことで、シャクシャインを中心に松前藩に対して蜂起した事件。多くの和人が殺されたことで、幕府が松前藩に鎮圧を命じ、その加勢に津軽藩も出兵を命じられた。最終的にシャクシャインは虚偽の和睦の席で暗殺されて蜂起軍が崩壊、津軽藩は渡海したものの実戦には加わっていない。
アクセス:青森県北津軽郡板柳町深味深宮