百体神社/凶首塚古墳

【ひゃくたいじんじゃ/きょうしゅづかこふん】

宇佐神宮の西門から真っ直ぐに延びた道は“勅使街道”と呼ばれ、朝廷の使者を迎えるための官道であった。神宮から約1kmほど離れた街道沿いに並ぶように、宇佐神宮の境外末社の百体神社、凶首塚古墳、さらに所縁の化粧井戸がある。この3箇所は宇佐神宮の重要な祭典に密接に関係する。

養老4年(720年)、南九州にあった隼人による反乱が起こった。朝廷による律令制度の導入に抵抗したのが発端と言われる。数千人の反乱に対して、朝廷は九州の兵を集めて鎮圧をおこなった。朝廷との結びつきが強固であった豊前国では、宇努男人が将軍に任ぜられて多くの兵が派遣された。その際に、宇佐神宮に戦勝の祈願を行い、神託を受けた。すなわち、自ら討伐に行くことを託宣した八幡神を神輿に乗せて戦地へ赴き、隼人と交戦したのである。

乱は約1年余りで平定されたが、八幡神の宇佐への帰還はさらに遅れて養老7年(723年)であった。その帰還の際に持ち帰られたのが、討たれた隼人の首100個であった(あるいは捕虜100人)。持ち帰られた首(あるいは当地で処刑された首)は一箇所に集められ埋められた。それが凶首塚の古墳であるとされる。さらにこの隼人の霊を慰めるために設けられたのが百太夫殿であり、それが百体神社となったと言われる。また八幡神と共に隼人平定に赴いた、吉富町の古表神社と中津市の古要神社の御神体である傀儡子(操り人形)が宇佐神宮の祭典に奉仕する際に化粧する“化粧井戸”も目と鼻の先にある(この傀儡人形に目を奪われたために隼人は討たれたとも伝えられる)。

しかしこのような慰霊にも拘わらず、神亀元年(724年)に八幡神はさらに隼人の霊を鎮め、己の殺生の贖罪のために“放生会”を執りおこなうよう託宣する。そして天平16年(744年)、和間の浜において蜷貝などの貝類を海に放つという放生会が日本で初めて公式におこなわれたのである。放生会は仏教における殺生戒に基づく儀式であったが、神の託宣によってそれを神社で執りおこなうことで、神が仏の教えに従う形が形成され、それが“神仏習合”という思想へと昇華していったものと考えられている。

現在、宇佐神宮では秋の大祭は“仲秋祭”という名称で呼ばれており、百体神社が主となって執りおこなわれることはなくなっている。また凶首塚古墳も検証によって、隼人の反乱よりも100年以上前の6世紀に造られた横穴式古墳の石室であると断定されている。ただ目的や意味づけは変われど放生会は連綿と続けられ、そして今なお宇佐神宮の大祭と位置づけられているのである。

<用語解説>
◆宇佐神宮
豊前国一之宮。全国に4万社あると言われる八幡社の総本社。宇佐の地に現れた八幡神を祀る。神亀2年(725年)に聖武天皇の命によって現在地に社殿が造られている。

◆八幡大神
欽明天皇32年(571年)に宇佐の地に現れた神であり、主神は第15代応神天皇の神霊とされる。また宗像三女神と同一とされる比売大神、応神天皇の母である神功皇后の三柱からなる。天皇の御霊を神とするため、皇室との結びつきは強い。また後年、源氏の信仰厚く、武家の守神とされる。

◆宇努男人(うぬのおひと)
豊前守。兵を率いて隼人の反乱の鎮圧に功があった。『万葉集』に、大宰府の官人と共に香椎を訪れた際に詠んだ歌が残されている。

◆古表神社
神功皇后を祀る宮として、欽明天皇の時代に創建。隼人の反乱の際に、宇佐神宮の八幡神と共に戦地に赴く。後に八幡神を合祀する。宇佐神宮の放生会に傀儡子(操り人形)が参加する習わしとなっている。

◆古要神社
祭神は神功皇后であるが、その創建の由来は不祥。古表神社と同じく、隼人の反乱の際に戦地に赴く。また宇佐神宮の放生会に傀儡子が参加する。

◆神仏習合
日本固有の神の信仰と外来の仏教の信仰が融合・調和した思想。最初は「神が仏教に帰依して修行する」形で融合が始まるが、その典型が八幡神の託宣によって放生会が宇佐神宮で執りおこなわれたことである。また八幡神に仏の称号である菩薩号を付け“八幡大菩薩”と称することも始められた。さらに平安時代以降は「神の姿は仏の化身したもの」とする“本地垂迹説”が確立し、神と仏は一体であるとする思想へ発展した。明治時代の「神仏分離」政策によって神道と仏教が切り離されるが、今なお日本人の宗教観に大きな影響を与えている。

アクセス:大分県宇佐市南宇佐