谷性寺
【こくしょうじ】
明智光秀が、丹後国攻略の足がかりとして現在の亀岡市に亀山城を築いたのは天正6年(1578年)頃とされる。実際に丹波国を手中に収めるのは2年後となるが、築城当初よりこの亀山城を国の統治の中心と考えていたようで、城下に近隣の村々の者を集め町を造っている。それとは別に、光秀が丹波入国直後から度々訪れ、深く帰依していた寺院がある。それが谷性寺である。
谷性寺の創建は平安時代とも鎌倉時代とも言われる古刹である。真言宗の寺院で、本尊は不動明王。光秀はこの不動明王を篤く尊崇し、丹波国平定を祈願している。
そして天正10年(1582年)本能寺の変の直前。光秀は襲撃を決断した際に不動明王に「一殺多生の降魔の剣を授け給え」と誓願したとされる。さらに天王山の戦いに敗れ伏見小栗栖で落命する際にも、介錯をした溝尾庄兵衛が臣下に命じて光秀の首級を谷性寺の不動明王の許に葬らせたという。
現在、境内には「光秀公首塚」と刻まれた石碑がある。ただこの石碑が建てられたのは安政2年(1855年)のことであり、本当にこの石碑の下に首級が葬られているかは不明である。ただこの碑が建てられた理由として光秀の怨念を鎮めることが挙げられているが、これもまた実際のところは不明である。
【光秀寺】とも称される谷性寺であるが、今では光秀の家紋である「桔梗の寺」として有名であり、毎年時期になると数万本もの桔梗の花が咲き乱れる光景が見られる。
<用語解説>
◆丹波亀山城
天守を守る外堀や土塁を持つ惣構の城として明智光秀が築城を始めたのは天正5年(1577年)とされ、本能寺の変後も破却されず、慶長年間(1596~1615年)に惣構が完成したと考えられている。江戸幕府以降も丹波亀山は山陰道の重要拠点として譜代大名が交代で統治する藩となった。
明治以降は廃城となって所有者を転々と変えていたが、大正8年(1919年)に大本教団が購入して神殿を建てて布教拠点とした。大本弾圧時に神殿など破却されたが、戦後に再び大本が所有し、現在に至る。
なお現在の地名「亀岡」は明治2年に(1869年)に政府によって改称されたものである。伊勢亀山藩との明確な区別のためであるとされる。
◆溝尾庄兵衛
?-1582。明智家の家人で光秀の重臣。三沢姓を名乗っている史料も複数ある。伏見小栗栖で致命傷を負った光秀の介錯をした。その後光秀の首級を近くに隠し、近江坂本城へ戻って自害したとも、落ち武者狩りに遭遇しその場で自害したとも言われる。
アクセス:京都府亀岡市宮前町猪倉