合元寺

【ごうがんじ】

通称「赤壁寺(あかかべでら)」。寺の壁がこれでもかと赤く塗られている。だが、それにはある悲惨な歴史的事件が発端となっている。

豊臣秀吉の九州統一によって、鎌倉時代から豊前に領有していた城井(豊前宇都宮)氏は四国へ転封となったが、領主の城井鎮房が拒否したため、新たに豊前に入封してきた黒田孝高と一戦を交えることとなる。しかし頑強な抵抗にあった黒田氏は緒戦で敗れ、最終的に和議を結ぶこととなった。

40名余りの家臣を引き連れた鎮房は、黒田氏の治める中津城下へ入り、一旦合元寺へ止宿する。そして中津城へ赴くのであるが、許されたのは鎮房と小姓の2名だけ。あとの家臣は合元寺に留め置かれた。これは黒田側の謀略であり、鎮房は城内で騙し討ちに遭って斬られ、さらに黒田勢が合元寺にいた家臣を急襲して全員を討ち取ったのである。

この時、合元寺では凄まじい戦闘が繰り広げられ、かなり凄惨な光景となったらしい。寺の壁一面が血糊や血飛沫で赤く染まったのである。その後、寺がいくら壁を塗り替えても白壁から血が滲み出てくるために、結局赤く塗るしか隠せないようになったということである。合元寺の赤壁は、まさにこの事件で一族が滅亡した城井氏の怨念の象徴であると言えるだろう。

<用語解説>
◆合元寺
天正15年(1587年)に黒田孝高が建立。開基は、黒田家旧領だった姫路より従って来た空誉上人。空誉上人が城井鎮房の庶子であったため、城井氏が止宿したと言われる。また空誉上人自身も後日、黒田家のお家騒動に絡んで処刑されることになる。

◆城井鎮房
1536-1588。城井(豊前宇都宮)氏16代当主。城井谷地域の領主として有力大名に転々と属する。秀吉による九州統一後に転封を拒否したため中津城内にて斬殺される。怪力無双の弓の名手と言われた。

◆城井氏滅亡
城井氏滅亡にあたっては、当主の鎮房の謀殺の他、父親の長房は城井谷城で討ち死に、息子の朝房は出陣先の肥後で暗殺、和議の条件として黒田家に嫁した娘の鶴姫は磔となった。
その後、祟りを怖れた黒田家は中津城内に城井神社を建て、さらに福岡転封の際にも警固神社を建て、怒りを鎮めようとした。しかし、黒田騒動(1633年)の際にも、黒田家の正統が途絶えた(1719年)際にも、全て城井氏の祟りであるという噂が流れた。

アクセス:大分県中津市寺町