原城跡
【はらじょうあと】
寛永14年(1637年)に始まった島原の乱の最終決戦地である原城は、島原半島の南端に位置する。当時既に廃城となっていたこの場所に、天草と島原から集結した一揆軍約37000人が立て籠もり、約3ヶ月間の籠城戦を繰り広げた。結局、兵糧も武器も尽き果てた一揆軍は、山田右衛門作を除き皆殺しとなり、乱は鎮まった。
この城跡は国の史跡に指定されており、本丸は公園化されている。この地の入り口付近にあるのが「ホネカミ地蔵」。明和3年(1766年)に、この地に残された遺骨を拾い上げて供養するために建てられた碑である。本丸跡には、この乱の指導者であった天草四郎時貞の像があり、そのそばには民家の石垣から発見された四郎の墓が置かれている(解読できない文字があるが、一応「天草四郎時○」という名前は読みとれる)。
なお、国道251号線から本丸へ向かう途中には、幕府軍の上使で戦死した板倉重昌の碑があり、また、南有馬中学横にある八幡神社境内には、乱後に天草代官となった鈴木重成による島原の乱供養碑がある。
<用語解説>
◆島原の乱
島原藩や天草郡での年貢取り立ての苛政が引き金となって勃発。江戸期最大の内乱とされる。苛政以外にも、切支丹取り締まりに対する抵抗や、取り潰しとなった旧藩の浪人蜂起などの、当時のさまざまな社会問題が根底にあるとされる。乱後、島原藩主の松倉勝家は改易となり斬首(大名の斬首刑はこの1例のみ)、天草を領有した唐津藩主の寺沢堅高は天草召し上げ、後に狂死(自殺)し、改易となる。
◆山田右衛門作
島原在の南蛮絵師。一揆軍の副将格であったが、内通。そのために唯一の生存者となる。乱後は江戸に住んだとも伝わる。「天草四郎陣中旗」の作者とも言われる。
◆天草四郎時貞
1621?-1638。キリシタン大名で関ヶ原の戦いで処刑された小西行長の家臣の子とされる(本名は益田姓との説が有力)。数々の奇跡を起こしたとの噂が広まり、救世主と仰がれた(あるいは豊臣秀頼の落胤との噂も)。島原の乱では指導者としてかつがれ、一揆軍の精神的支柱となったが、戦闘の実質的指導者は他にあったとされる。謎の多い人物であり、首実検はおこなわれたが、最終的にその生死も不明の部分が大きい。
◆板倉重昌
1588-1638。三河深溝藩主。島原の乱の際、幕府の上使(総指揮官)として赴任するが、小藩であったため西国大名の統制ができずに苦戦。松平信綱が新たに上使として赴任する報を聞き、無謀な突撃を仕掛けて戦死する。
◆鈴木重成
1588-1653。島原の乱直後の初代天草代官。島原の乱にも参戦。代官着任後は、新規入植民の奨励(領民の殆どが一揆軍に参加していたため荒廃)、再検地の実施、宗門改めと教化をおこない善政を敷く。領民困窮の原因が唐津藩時代の石高の水増しにあると判断し、土地の石高半減を幕府に訴え、それが聞き入れられないために訴状を残して抗議の自決をする(天草の石高半減は嫡男の代に実現)。天草にある鈴木神社に祀られている。
アクセス:長崎県南島原市南有馬町