あごなし地蔵

【あごなしじぞう】

遣唐副使として唐へ渡る予定であった小野篁は、正使の理不尽に抗議して乗船を拒否、さらに遣唐使政策そのものを揶揄する漢詩を作った。これが嵯峨上皇の逆鱗に触れると、篁は官位を剥奪され隠岐へと流罪となる。承和5年(838年)のことである。

流罪となった篁であるが、島内では自由に行動が出来たことから、方々へ出掛けていた。ある時茶屋で休憩していると、その家の娘である阿古那が歯痛で苦しんでいた。そこで篁は一体の地蔵を彫ると平癒するよう祈願せよと言って与えた。その後阿古那の歯痛は治り、篁が立ち寄る度にかいがいしく仕えた。そのうち篁もその姿を愛おしく覚え、いつしか二人はわりない仲となり、子までもうけたのであった。

しかし承和7年(840年)には篁は赦免となって都に戻ることとなった。この頃もうけた幼子を亡くしていた阿古那は悲嘆にくれ、篁に哀訴した。そこで篁は亡き我が子の姿を象った地蔵をもう一体彫ると、二人の思い出として阿古那に与え島を去ったのである。

その後2体の地蔵は大切に安置され、阿古那のために作られたことから“あこな地蔵”と呼ばれ、それが転訛して“あごなし地蔵”の名が付いたとされる。そして歯痛のご利益がある地蔵として広く知られるようになった。

別伝では、歯痛で悩んでいたのは、篁の身の回りの世話をしていた阿古という農夫で、“阿古治し地蔵”が転訛したものだとも言われる。

時を経た明治初期、隠岐でも廃仏毀釈の運動が激しくなり、このあごなし地蔵を安置していた寺は破却され、さらに地蔵堂は火を放たれた。しかし役人の目を盗んで火中から2体の地蔵を救い出した者があり、今に伝わったとされる。現在では地域ぐるみで管理し祀られている。そしてご利益の絶大さ故か、“隠岐からやって来た”という伝承を持つあごなし地蔵が全国各地に祀られており、歯痛にご利益のある地蔵として各地域で知られた存在となっている。

<用語解説>
◆小野篁
802-853。後に参議。漢詩の才に長け、文官としての能力も高かったとされる。また生前から奇怪な噂があり、冥官として夜な夜な地獄へ通っていたとも言われる。
流罪の一件は、渡航前に正使の船が破損し、副使の船と交換するよう命が下されたことがきっかけで、病と称して渡航を拒否したとされる。

◆全国各地の“あごなし地蔵”
隠岐との関係が明らかなものをいくつか挙げる。
・大阪府豊中市 東光院
 小野篁が農夫・阿古のために彫ったとされる。明治2年(1869年)廃仏毀釈の折に住職が地蔵を持ち出し、師の在住する東光院に安置された。
・兵庫県播磨町 善福寺
 小野篁が農夫・阿古のために彫ったとされる。地蔵は3体あり、明治2年の廃仏毀釈時に1体は隠岐に残し、2体が住職が持ち出され、そのうちの1体が納められたとされる(もう1体は豊中の東光院に)。
・三重県大紀町
 隠岐で歯痛で苦しむ者が下顎をもぎ取って死んだのを供養するために造られたとされる。この土地の林安兵衛という者が天保10年(1839年)に隠岐から持ち帰った。
・兵庫県加西市 阿弥陀寺
 隠岐に流された小野篁の世話をした徳兵衛には妻があったが、7年間頭痛のため米も食べられず亡くなった。篁は妻の供養のために地蔵を彫って徳兵衛に与えた。地蔵は首から上の病にご利益があり、明治の頃に佐伯平七という者が歯痛平癒を祈願して全快したため、この地に勧請した。
・広島市中区 水主町地蔵堂
 広島藩浅野家の水主(船頭)が持ち込んで祀った。歯痛のご利益のあるあごなし地蔵はインドより隠岐島に伝来したと伝えられる。
・愛媛県今治市 大仙寺
 今治藩士で藩の海運に功績のあった深見利兵衛が嘉永元年(1848年)に隠岐から勧請したもの。地蔵は歯痛となった小野篁が祈願して平癒したと伝わる。
・愛知県南知多町 慈光寺
 江戸時代に廻船問屋で豪商だった、地元の内田佐七が隠岐から勧請して祀った。
・大阪市西区 和光寺
 隠岐国の海辺を漂流していたところを鴻池家の船が拾い上げ、寄進した。“あごなし”の名は、面部に彫り直した形跡があり、顎部分が木痩せしているため付けられたと推測している。歯痛のご利益は特になし。
・大阪府八尾市
 祈願した者が全快すると、名前を広めるとして“隠岐国あごなし地蔵菩薩”と彫って各所に奉納したものの一つとされる。
・鳥取県米子市
 小野篁が彫った、隠岐のあごなし地蔵を勧請したものとされる。

アクセス:島根県隠岐郡隠岐の島町上西

 

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