将軍塚

【しょうぐんづか】

地元では夜景デートコースの最高ロケーションとして知られている将軍塚である。だがとにかく自動車以外のアクセス方法が厳しく、東山ドライブウエイ(二輪厳禁)を登っていくか、粟田神社からの山道を行くかしかたどり着く方法はない。地理的に言えば、知恩院の裏山にあたる華頂山の山頂である。

一般に「将軍塚」というと駐車場のそばにある展望台を指すのであるが、実際にはそこには【将軍塚】はない。そこから少し離れたところにある青蓮院門跡の飛び地である大日堂がある。その庭園の中に【将軍塚】はある。

将軍塚は直径約10メートル強の円形の塚である。この塚の下には、甲冑を身にまとい矢を持った、高さ八尺(約2.4m)の土偶が西の方を向いて埋められている。まだ平安京が造営される前、和気清麻呂は桓武天皇を伴ってこの地を訪れ、長岡京の換わりにこの地に都を造営するように進言したと言われる。そして平安京が造営される時に、この塚を京都守護のために作らせたという。

将軍塚は桓武天皇が仕掛けた怨霊封じのシステムの一つであるのは間違いない。だが他のシステムとは違い、将軍塚は単独の形でセットされている。そしてそのシステム機能は思わぬ形のものなのである。

朝廷の記録によると、1156年と1179年の2回、この将軍塚が鳴動したというのである。1156年は保元の乱(武士勢力が朝廷を牛耳る端緒)、1179年の翌年は治承の乱(源頼朝の挙兵、武士政権誕生の端緒)という大きな事件が起こっている。しかもこれらの事件に共通なのは【朝廷の威信の凋落】である。つまり将軍塚は朝廷に危機が訪れる時に鳴動する、いわば警報装置なのである。

その後も何度か将軍塚は鳴動したと言われており、直近の報告ではあの太平洋戦争が起こる直前にも鳴動したとされている。

<用語解説>
◆和気清麻呂
733-799。民部卿。宇佐八幡宮神託事件で功績があり、桓武天皇在位の頃には中央の役職に就く。平安京造営の進言をおこなう。

アクセス:京都市山科区厨子奥花鳥町