橘逸勢神社
【たちばなはやなりじんじゃ】
橘逸勢は、左大臣・橘諸兄を曾祖父に持つ名家の出身で、最澄・空海と共に遣唐使として派遣され書と琴を学び、後に“三筆”と謳われた人物である。しかしその晩節は、藤原氏による承和の変(承和9年:842年)によって捕縛され、身分を剥奪(“非人”の姓とする)の上、伊豆へ流罪となった。さらに悲劇的なことに、老齢の逸勢は、捕縛後の杖で打たれるなどの拷問を受けた後の流罪であったためか、途中で客死する。そのような無惨な最期を遂げた逸勢を祀るのが橘逸勢神社である。
橘逸勢神社は、三河国から本坂峠を越えて浜名湖の北側から遠江国に入る「姫街道」(現:国道362号線)に面した場所にある。本坂トンネルを抜けて静岡県側に入ってすぐという場所、かつてこのあたりに板築駅があり、そこで逸勢は病没したとされる。
老齢であった逸勢の身を案じて、一人娘が官兵に何度も遮られながらもその配流の行列を追っていった。そして板築駅に到着後に父親の病死を知る。嘆き悲しんだ娘は、当地に父を埋葬すると、その墓のそばに庵を設けて尼となり、妙冲と名乗って父の菩提を弔い続けたという。これが橘逸勢神社の始まりであるとされる。
その後、嘉祥3年(850年)になって逸勢の罪は赦され、正五位下を贈位された。そして京の都に改葬を許可されると、妙冲尼が父の棺を背負って京に戻ってきたことから、京ではその孝女ぶりが評判となった。
逸勢はさらに仁寿3年(853年)に従四位下を追贈され、貞観5年(863年)の御霊会において早良親王・伊予親王らと共に祀られるまでになった。現在でも京都の上御霊神社と下御霊神社に祀られる「八所御霊」の一柱として祀られている。
一方、橘逸勢神社では、改葬で遺体が京に戻る前に鏡が奉納されたが、その後二度にわたって紛失、現在もその行方は分かっていない。
<用語解説>
◆承和の変
嵯峨上皇崩御の2日後、仁明天皇(嵯峨上皇の皇子)の皇太子となっていた恒貞親王(嵯峨上皇の弟で前代・淳和天皇の皇子)を、伴健岑・橘逸勢らが東国へ移そうとした計画が露見し、謀反とみなされた事件。
仁明天皇と自分の娘の間に出来た道康親王を皇位に就けようと考えていた藤原良房にこの画策が漏れたため、強硬な態度で事が運ばれた。健岑と逸勢はそれぞれ流罪、恒貞親王は世情を騒がせた責任を取って廃太子となり、道康親王が皇太子となって後の文徳天皇となった。
嵯峨上皇の崩御によって生じた騒乱に乗し、藤原良房が仕掛けた陰謀とされ、藤原氏による他氏排斥事件の端緒となった。
◆八所御霊
生前に非業の死を遂げ、天皇家に対して怨みを持つ怨霊(御霊)となって天災を引き起こすとされた八柱の神。貞観5年(863年)の御霊会において祀られた、早良親王(崇道天皇)、伊予親王、藤原吉子、藤原広嗣、文室宮田麻呂、橘逸勢の六柱と、後に加えられた吉備真備、火雷神(菅原道真)の二柱を指す。
アクセス:静岡県浜松市北区三ヶ日町