玉藻稲荷神社

【たまもいなりじんじゃ】

鳥羽法皇の愛妾・玉藻の前となって怪事を引き起こして国を転覆させようとした金毛九尾狐の話は、陰陽師・安倍泰成の呪術によって玉藻の前が正体を現して都を退散することで、舞台を京から下野国那須へと移す。最も有名な伝説はこの地で金毛九尾狐は討ち果たされて殺生石になるという展開であるが、それとは異なる伝説を持つのが玉藻稲荷神社である。

那須野に逃れ隠れた金毛九尾狐であるが、それを討ち果たすよう銘ぜられたのが三浦介・千葉介・上総介の関東の武士勢である。彼らは那須野を包囲すると徐々に範囲を狭めて追い込み、ついに小さな池のほとり辺りまで追い詰めた。しかし金毛九尾狐はここで術を使い、蝉に化身して池そばの桜の木に止まり息を潜める。それに気付かない軍勢は、狐の姿を虱潰しに探し回るが見つからない。また一から探さねばならないかと思い始めた大将格の三浦介がふと池を覗き込むと、水面に狐の姿が見えた。しかし視線を上げると、そこには桜の木に止まる一匹の蝉だけ。三浦介は金毛九尾狐は妖術を使うことを思い出し、敵が蝉に化けて逃げようとしていることを察した。そしておもむろに弓に矢をつがえると、いきなり桜の木に向かって矢を放つ。矢は寸分違わず蝉を射抜き、ここに金毛九尾狐は退治されたのである。

この金毛九尾狐が討ち取られた鏡池は玉藻稲荷神社の境内に現存しており、玉藻稲荷神社の祭神には玉藻の前の御霊即ち金毛九尾狐も含まれている。この神社には源頼朝も参拝しており、退治後かなり早い時期に創建され神として祀られていると推察出来る。

<用語解説>
◆鳥羽法皇
1103-1156。第74代天皇で保安4年(1123年)退位。退位後に藤原得子(美福門院:1117-1160)を寵愛するが、これが玉藻の前のモデルとされている。

◆白面金毛九尾狐
九尾狐は古来より霊獣とされ、天下太平の時に現れる瑞獣と言われていた。
『御伽草子』では妖狐は“二尾の狐”と明記されており、かつて天竺(インド)や震旦(古代中国)に跋扈して国を滅ぼした例として耶竭陀国の斑足太子(華陽夫人にそそのかされ千人の王の首を求めた)と周の幽王(寵姫の褒似の笑顔を見たいがために諸侯の不興を買って滅ぼされた)を挙げている。
後世の創作においてこの狐の正体が“王を惑わせて国を滅ぼす傾国の美女”である例として加えられたのが、殷の紂王の寵姫であった妲己であり、『封神演義』などの諸作で妲己の正体を白面金毛九尾狐としていた。このような流れで、いつしか玉藻前が九尾狐とみなされるようになったと考えられる。
ちなみに玉藻前は、吉備真備が唐より戻る船に紛れ込んで日本に来たとされ、後に北面の武士であった坂部行綱の拾い子として育てられ院に出仕するという設定となっている。

◆安倍泰成
史実では泰成という人物は見当たらないが、鳥羽上皇や美福門院に召し出された陰陽師に安倍泰親(1110-1183)があり、モデルであると考えられる。泰親は特に占いに秀でており、安倍晴明以来の実力者と目され、災害や政変を多く言い当てたとされる。

◆三浦介・千葉介・上総介
三浦介は三浦義明(1092-1180)、千葉介は千葉常胤(1118-1201)、上総介は上総広常(?-1183)とされる。3名とも源義朝の家臣として保元の乱・平治の乱を戦い、源氏敗北後も関東にあって勢力を温存し、源頼朝挙兵の際に有力な軍勢として早期に参陣している。平治の乱にあって美福門院が平清盛を支持した経緯を考えると、源氏恩顧の武将が妖狐退治に指名された点は興味深い。

アクセス:栃木県大田原市蜂巣

栃木

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