熊野神社

【くまのじんじゃ】

熊野神社は、熊野三山の中心となる熊野本宮大社を総本宮として全国に4700社以上あるとされる。その中の一社である名取の熊野神社は、特別な存在であると言える。

この熊野神社は元々“熊野新宮神社”と呼ばれ、付近には“熊野本宮神社”と“熊野那智神社”があり「名取熊野三社」と呼ばれている(新宮神社が名取における熊野信仰の中心地となっていたため、単に“熊野神社”と呼ばれるようになったとのこと)。この熊野三社と呼ばれる神社がそれぞれ独立した形で勧請されてあるのは、この名取の熊野三社だけである。しかも仙台湾を熊野灘、名取川を熊野川、高舘丘陵を熊野連山とそれぞれ見立て、本宮社・那智社・新宮社が紀州の各大社と同じように配置されている。

この他に類を見ない勧請がなされた背景として語り継がれているのが、“名取老女”の伝説である。

名取老女と呼ばれる女性は、おそらく若い頃から歩き巫女を生業としていたとされ、48回にわたって紀州熊野参詣をおこなっていた。ところが、年老いて足腰が弱ってしまったためもはや参詣は叶わないと、保安4年(1123年)に名取の地に熊野権現を祀る小祠を建てて毎日信心していた。

その頃、ある山伏が陸奥国を回るべく熊野本宮大社の證誠殿に参籠していると、その夢に衣冠正しい老人が梛の葉を持って現れ、「陸奥国へ行くならば、名取老女の許へこの梛の一葉を届けて欲しい」と言われた。そこで目が覚めた山伏の枕元には、虫に食われた一枚の梛の葉が置かれていた。しかしその食われた部分は文字となっており、
「道遠し 年もいつしか 老いにけり 思い起こせよ 我も忘れじ」と、老女の今までの信心を慰撫する内容の歌となっていたのである。

名取に赴いた山伏がこの葉を手渡すと、老女は感激のあまりむせび泣き、さらにその信心の厚さが評判となって名取熊野三社は大いに繁栄したとされる。

この“名取老女”の伝説はもう一説あり、保安4年に鳥羽天皇(あるいはその娘)が重い病に罹り、それを治すために“あさひ”という名の年老いた歩き巫女が陸奥国から召し出された。無位無官では天皇にお目見え出来ないため、巫女は位を与えられ“名取老女”として病気平癒の祈祷をおこなった。そして無事病が癒えたので、天皇が望みのものを与えると言われると、老女は日頃信心している熊野権現を名取の地に勧請して欲しいと願い出た。天皇は快諾、早速取り計らい、老女は熊野三社の分霊を携え、八咫烏の導きで無事に帰郷して三社を創建したという。

<用語解説>
◆梛の葉
梛(ナギ)はマキ科の常緑高木。梛の木は熊野三社の御神木とされ、その葉は魔除けとして熊野参詣をする者が身に着けていた。また熊野比丘尼が梛の葉を配り歩いて、熊野信仰を広めていったとも言われる。

◆鳥羽天皇
1103-1156。第74代天皇。父である堀河天皇崩御後5歳で即位し、保安4年(1123年)に長子である崇徳天皇に譲位する。なお保安4年当時に存命の娘は、第一皇女である禧子内親王(1122-1132)のみである。

◆能「名取ノ老女」
上記の山伏と名取老女の伝説を下敷きにした作品で、「護法」という名で寛正5年(1464年)に音阿弥(世阿弥の甥にあたる能楽師)が演じたとの記録が残っている。明治以降廃曲となっていたが、平成28年(2016年)に復曲、上演されるようになった。

アクセス:宮城県名取市高舘熊野堂