武内神社

【たけうちじんじゃ】

武内宿禰は古代史における伝説的忠臣として景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代の天皇に仕えたとされる。特に仲哀天皇の后である神功皇后を補弼して多くの伝説を残し、また5代の天皇に仕えたことから300歳を超える長寿であったとされ、歴史上の人物というよりはむしろ伝説的存在、あるいは複数の忠臣の事績を統合した象徴的人物とされる。

記紀には武内宿禰の事績の詳細が記述されており、その出生については紀伊国であると明記されている。天皇の名代として祭祀を執りおこなうために紀伊国へ赴いた皇族(『日本書紀』では屋主忍男武雄心命、『古事記』では彦太忍信命)が9年間滞在し、紀氏の娘・影媛(山下影比売)との間に生まれたのが武内宿禰とされる。

この皇族が滞在していたと比定される和歌山市松原には、武内宿禰所縁の神社がある。近くにある安原八幡神社奥宮とされる武内神社である。しかしながら小さな本殿があるだけで、境内で一番目立つのは覆い屋である。覆い屋は武内神社長寿殿と呼ばれ、その中には“武内宿禰の産湯の井戸”がある。

この井戸が現在のような形で祀られるようになったのは、享保の頃(1716~1736年)とされる。記紀の考証により、この井戸が武内宿禰所縁の井戸であると定められると、紀州徳川家がこの場所を管理して一般の立ち入りを禁じた。そして藩主に子が生まれると、5代の天皇に仕えた長命にあやかる、多くの氏の家祖となった子孫繁栄にあやかるためにこの井戸の水を汲み上げて産湯に使っていたとされる。

<用語解説>
◆武内宿禰の父方系譜
第8代孝元天皇の皇子である彦太忍信命は、『古事記』では武内宿禰の父とされるが、『日本書紀』では祖父と記されていることから、武内宿禰は天皇家に繋がる血筋であることは間違いないと考えられる。なお『日本書紀』で父とされる屋主忍男武雄心命は『古事記』にはその名はない。

◆安原八幡神社
和歌山市相坂にある神社。武内神社とは約1km程離れている。この地は、三韓征伐(武内宿禰も補弼)から帰還しようとした神功皇后が、忍熊王の反乱によって都に戻れず、紀伊に迂回して上陸、頓宮とした場所とされる。この時、神功皇后は生まれたばかりの皇子(後の応神天皇)を武内宿禰に託して兵を率いたとされ、おそらく武内宿禰の故郷に近いという理由から選ばれた地であったと推測出来る。

アクセス:和歌山県和歌山市松原