内裏神社

【だいりじんじゃ】

祭神は耳面刀自媛(みみもとじひめ)。弘文天皇(大友皇子)の妃で、藤原鎌足の娘である。ただ『日本書紀』にはその名は記載されておらず、『懐風藻』に藤原鎌足の娘が皇子の妃となることが記述されており、おそらくそのような人物がいたと推測される。

天武天皇元年(672年)に起こった壬申の乱で、天智天皇の息子の大友皇子は叔父に当たる大海人皇子(後の天武天皇)に敗れ、近江国で自害している。耳面刀自媛も本来であれば命運を共にするはずであったが、伝承によると、従者18名と共に琵琶湖から川を下って難波(大阪湾)に至り、さらに船に乗って遠く東国へ逃れたとされる。常陸国鹿嶋は父である鎌足の出生地との伝説が残されており、父の故郷へと逃れて身の安全を図ろうとしたのかもしれない。

しかし、嵐のため上総の浜(現在の匝瑳市内裏塚浜)に上陸後、間もなく姫は病を得て倒れ、乱の終結後わずか2ヶ月ほどのうちに亡くなった。そこで中臣英勝ら従者は塚を築いて媛を丁重に葬った。それが匝瑳市にある内裏塚下古墳である。

さらに天慶3年(940年)に、英勝の8代子孫に当たる中臣美敷が塚の墳土の一部を移して、媛を祀る社をを建てた。これが内裏神社の始まりである。

この内裏神社から南へ約1kmのところに、耳面刀自媛の墳墓とされる大塚原古墳がある。伝承によると、こちらも天慶3年に初めに造られた内裏塚古墳から改葬して造られたとされる。実際、明治24年(1891年)に災害で古墳の一部が崩れた際に中を確認したところ、中臣英勝の墓石が発見され、密接な関係のある古墳であることが実証されている。また内裏神社の33年に一度の大祭では、内裏神社を出発した神輿行列が、途中大塚原古墳を経由して、媛が漂着した内裏塚浜まで巡幸する。

<用語解説>
◆大友皇子
648-672。第38代天智天皇の第一皇子。天智天皇崩御後に近江で即位するも、叔父である大海人皇子(後の天武天皇)との政争に敗れ、近江で自害する。しかし千葉県内には、耳面刀自媛と同じく多くの家臣と共に上総国に逃れて暫く暮らしていたが、天武天皇の派遣した征討軍との戦いの中で自害したという伝説があり、各地に滞在地とされる伝承地が残る。

◆『懐風藻』
天平勝宝3年(751年)に完成した最初の漢詩集。大友皇子の曾孫となる淡海三船が編者であるとされる。

◆藤原鎌足の出生地
地理的な考慮をすると、奈良県明日香村の大原神社を生誕の地とすることが妥当であるが(産湯の井戸が現存する)、藤原氏の氏神である春日大社との関係から鹿島神宮のある常陸国も生誕地として有力視される。また上総国(現・木更津市)の高蔵寺にも鎌足の伝説が残っており、この寺に祈願して得た娘が良縁に恵まれず嘆いたところ、「鹿嶋へ行って日天を拝むように」との夢告を受けて授かった男児が鎌足であるとされている。また木更津市内にはかつて鎌足村という村が存在しており、強い繋がりがあると考えられる。

◆中臣英勝
生没年不詳。事績についても不詳。父親は、天智天皇の時代に右大臣として活躍した中臣金である(金は壬申の乱では大友皇子側についたが、捕らえられ斬罪となった)。

アクセス:千葉県旭市泉川