大日霊貴神社/吉祥院/独古大日神社

【おおひるめむちじんじゃ/きっしょういん/とっこだいにちじんじゃ】

JR花輪線が岩手から秋田県に入ったあたりには「だんぶり長者」の伝説が残されている。

早くに両親を失った少女が、ある時夢を見た。翁が現れ「川を遡ると若い男とで出会うので、その者と夫婦になると良い」と言う。目覚めた少女は川上に行って若者と出会い、お告げの旨を伝えて夫婦となった。さらに数年後、再び翁が夫婦の夢に現れ「さらに川上に行けば、徳の高い者になる」と言われ、上流の田山に移住し土地を開いた。

ある日疲れた夫婦が休んでいると、どこからともなく1匹の“だんぶり(トンボ)”が飛んできて、寝ている夫の顔に何度も止まって尻尾を口元に当てた。妻が不思議に思っていると、夫が目が覚めるや「旨い酒を飲んだ夢を見た」と言う。妻はそれを聞くと顔にトンボが止まってたことを教え、二人はその後を追ってみた。そして森の奥に辿り着くと、香り高い酒がこんこんと湧き出す泉を見つけたのである。

夫婦はこの泉のそばに居を構え、この水を多くの者に供することで巨万の富を得た。人々はこの夫婦を「だんぶり長者」と呼んだのである。

さて、この夫婦には長らく子がなかったが、神に祈願して一人娘を授かった。この姫は秀子と名付けられ、年を経て美しく賢明な女性となった。ちょうどその頃、“長者”の名を正式に朝廷から授かろうと夫婦は思い立ち、娘を連れて都を訪れた。そして時の帝であった継体天皇にまみえると、天皇は秀子を大層気に入り、宮中に仕えるよう命じ、その後吉祥姫と名を改めて自らの妃に迎えたのである。

時はさらに過ぎ、“だんぶり長者”の夫婦が亡くなり、富をもたらした泉も枯れ果てて、多くの人が土地を離れたという知らせが吉祥姫の元に届いた。姫は早速天皇にその旨を告げ、郷里に戻って両親の徳を後世に伝えたいと願い出た。天皇も快諾し、夫婦が最初に出会った地である小豆沢に大日堂を建てることを許した。これが継体天皇17年(523年)のこととされ、大日霊貴神社の起源とされる。そして吉祥姫は郷里で余生を過ごし、遺言により小豆沢の地に葬られた。その墓は現在、大日霊貴神社近くの吉祥院にある(本堂向かって右端にあるとのこと。写真では見切れてしまっている)。さらにこの伝説ゆかりの地として独鈷大日神社があるが、この地は最初に翁が夢に現れた場所、すなわち吉祥姫の母の故郷とされる土地に継体天皇の命によって建立されたものである。

これらの寺社は一旦衰微したが、養老2年(718年)に元正天皇の勅命によって全て再建された。美濃国で起こった、泉の水が酒に変わったという孝子の奇瑞に感激した天皇が、同じ奇瑞として残されていた「だんぶり長者」の伝説を聞き及んでの命であったとされる。その時に遣わされたのが行基であり、その再建時に奉納された舞楽が「大日堂舞楽」として現在ユネスコ無形文化遺産となっている。

<用語解説>
◆“大日”の名称
大日霊貴神社の主祭神は天照大神とされる。しかしだんぶり長者にお告げをおこない吉祥姫の誕生にも関わった神とされる“大日神”と同一神であるかは定かではない。また行基による再建時には大日如来が安置されており(そのため“大日堂”の通称となっている)、大日霊貴神社は長く神仏習合の霊場として広く信仰されていた。

◆継体天皇
第26代天皇。在位507-532。15代応神天皇5世とされ、近江国で生まれ、生母の郷里である越前国で育ったとされるがその間の経緯は未詳であり、『日本書紀』では即位した時は既に60歳近い年齢になっていたとされる。即位後に前帝の姉・手白香皇女を皇后としているが、吉祥姫の可能性がある複数の妃も存在している。

アクセス:秋田県鹿角市八幡平小豆沢(大日霊貴神社)
     秋田県鹿角市八幡平小豆沢(吉祥院)
     秋田県大館市比内町独鈷(独鈷大日神社)