石座神社/山住神社
【いわくらじんじゃ/やまずみじんじゃ】
平安京は呪術による数々の防衛ラインが敷かれた魔界都市である。一番有名なのは“鬼門・裏鬼門”や“四神相応”といった陰陽道的な仕掛けであるが、それ以外にも仏教の法力によって鎮護を行う仕掛けがある。それが“四つの岩倉”と呼ばれるポイントである。
巨大な岩石を“磐座”と称して祭壇として使用したり、それ自体を崇拝する習慣があった。平安京造営時に桓武天皇は、京都の東西南北にある“磐座”を掘り出し、その下に一切経を埋めたという。古来よりパワースポットとして利用されてきた場所に仏教の経典を納めることで京都の町全体を守護させようという目的であったことは明らかである。そして性質の違いから、古来よりの“磐座”はなく“岩倉”という名称を使用するに至った訳である。
“岩倉”という文字を見てピンと来るのが、左京区にある“岩倉”というエリアである。この地はまさに桓武天皇が経典を納めた4つの岩倉のうちの“北の岩倉”にあたる。しかも経典を納めた巨石が残されているのである。
岩倉エリアの産土神として祀られているのが、石座神社である。漢字こそ違うが、まさに“いわくら”と読ませる神社である。ところがこの神社には 肝心の巨石がない。実はこの神社が【石座神社】と呼ばれるようになったのは明治になってからのことなのである。
今の石座神社から少し南へ行ったところに“山住神社”という神社がある。この神社には本殿がない。あるのは巨大な岩である。つまりここが本来の“石座神社”である。そもそも巨石そのものが御神体であったのだが、天禄2年(971年)に大雲寺創建に伴ってこの御神体の鎮守社が勧請され、長徳3年(997年)に岩倉エリアの鎮守はこの新しい神社に移されたのである。それが現在の石座神社なのである。しかし明治時代に入るまでは、巨石がある神社の方が“石座神社”と呼ばれ、鎮守社となった神社は“八所明神”と呼ばれていたのである。
現在“山住神社”は石座神社の御旅所としての地位にある。この2つの神社の変遷を見ていると、自然信仰から神社としての形式(社格)主義への流れが手に取るようにわかるように思う。
<用語解説>
◆鬼門・裏鬼門
魔物が進入してくる方角であり、そこに魔除けを置くことで封じる。鬼門は北東(艮:うしとら)の方角。裏鬼門はその反対の南西(坤:ひつじさる)の方角。京都の場合、鬼門に比叡山延暦寺を置き、裏鬼門には石清水八幡宮(または城南宮)を置く。
◆四神相応
東西南北を司る神と、それに相応しい地勢。この条件に適した土地であれば、土地の相が良いとされる。東は“青龍”で川。西は“白虎”で大道。南は“朱雀”で湖沼。北は“玄武”で山。京都の場合、東は鴨川、西は山陰道、南は巨椋池(現存せず)、北は船岡山となる。
◆四岩倉
北は石座神社(現・山住神社)、東は大日山(粟田口あたり。現存せず)、南は明王院不動寺(五条松原付近。現存)、西は金蔵寺(大原野付近。現存)
アクセス:京都市左京区岩倉上蔵町(石座神社)
京都市左京区岩倉西河原町(山住神社)